かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【太田 愛の話】太田怪獣の生まれ方(推論)

 太田 愛のシナリオ――といっても知っているのはウルトラに関するものだけだが――が好きだ。
 もちろんシナリオとして読んでどうこうというわけではなく、映像化されたものを観ての話。
 本当はシナリオのかたちのものや、他のドラマや小説にも触れるべきなのだろうが、シナリオというものは演じられて完成するものだと思うし、そうやってできた映像を観るだけでも充分にシナリオ作家の個性は感じられると思う。ことにウルトラのようなシリーズものでは、他作家の個性との比較が容易で、それだけに個々の個性というものがより強く感じられるものだ。というわけで無謀な真似とはと理解しつつ、その映像作品の魅力とかを勝手に述べてみたりするのだ。

 ウルトラにおける太田 愛の最大の功績は『ウルトラマンネクサス』で千樹 憐(せんじゅ・れん)というキャラクターを確定したことだと思うが(基本的な方向性はシリーズ構成を担った長谷川圭一が建てたものだろうが、それへ肉づけをし台詞の組み立てなどから“永遠の少年”像を明確にしたのは太田 愛だろう)、本来の彼女の作品の魅力は、むしろ『遠い町・ウクバール』(『ウルトラマンガイア』)や『雪の扉』(『ウルトラマンコスモス』)のような、日常と非日常の境界が曖昧になる“フィールド”で、人間がどうふるまうかを描いた作品にあると思う。
 太田作品の“主人公”は、ウルトラマンでもそれに変身するものでもない。“怪獣”という特別な事態に遭遇して右往左往するふつうの人間だ。(その点では憐もウルトラマンに遭遇したふつうの青年ということができる。もっとも憐はふつうじゃないが)
 この辺、実は『ウルトラQ』や初代『ウルトラマン』の基本に立ち返ったような部分があるといえる。
帰ってきたウルトラマン』以降に顕著な、撃退されるべき異能のUMAである怪獣とニンゲンの解消できない対立という構図から離れていて、怪獣はいわば触媒であり、それによって人間がなにかを呼び覚まされるというスタイル。
 唯一例外といえそうなのは、デビュー篇であるらしい『出番だデバン!』(『ウルトラマンティガ』)で、これは怪獣デバンダデバンも、その“ゆかいな仲間たち”も全員が怪獣で、その怪獣集団がニンゲン社会という怪獣以上におそろしいバケモノの住み処でどう存在し得るかという話だったりするのだが、その他の作品においてはおよそ上記が成立している。同じティガの『オビコを見た!』では一見オビコ(+影法師、そしてそれらのハイブリッドである“怪獣”オビコボウシ)が主人公のように見えるが、オビコたちはいわば狂言回しであって、それに翻弄される(あるいはオビコたちにそれをさせてしまう)愚かなニンゲンたちの方が、やはり主人公だろう。

 そしてまた太田怪獣は、その出自がなんとなく想像できるところがまた魅力的だ。
 たとえば『怪獣漂流』(『ウルトラマンマックス』)の亜空間怪獣クラウドスは、その名前の通り、雲を見ているうちに思いついたんじゃないかと思える。
 空を見ている。雲が浮かんでいる。風に煽られて、雲がさまざまに姿を変える。あっウチワみたいな形になった。今度は猫に見える。あっ怪獣になった。あの辺がしっぽ。本当にあれが怪獣だったら大変だよなあ。あんな風に空に怪獣が浮かんでいたら、どんなことが起きるだろう。真下の家には日光が届かなくて、朝が来ても暗いままだろうなあ。でもなんで怪獣は浮いてるんだろう? いや待て、浮いているってことは落ちてくる可能性があるってことだよねえ。うわあ。落ちてきたらそれこそ大騒ぎだなあ。
 そんな流れから、『怪獣漂流』は生まれてきたんじゃないかと想像できる。
 そこには、日常と非日常が突然切り替わる目眩に似た感覚があり、怪獣はそこで触媒、つまり日常を非日常に切り換えるきっかけの役割を果たしている。当然、そこに“居る”ニンゲンたちは、非日常に煽られて相応の反応をしなければならなくなる。
 そうして眺めるニンゲンのおもしろさ――それは滑稽な時もあり、せつない時も、愛らしい時もある――が描き出されるのが、太田シナリオの醍醐味のひとつだと思う。
 だからそれら触媒たる怪獣たちの出自は、日常と乖離しない。
 乖離しないが、それをピックアップする太田 愛個人の感性は、実は日常と乖離している。乖離しているから、現象を客体化できるのだ。
 この辺、実は、金城哲夫と近いものがあるのではないかと思うことがある。

 金城シナリオはもはや伝説の域にあるだろう。だがそれは当然のこと。なにしろ俺は、金城哲夫こそ怪獣をゴジラの呪縛から解放した功労者だろうと考えているくらいだ。
 ゴジラの呪縛とはなにかといえば、ゴジラが備える圧倒的な存在感による怪獣というカテゴライズのことで――わかりづらいな、えらく。まあ要するにゴジラと比較しなくともよい怪獣を生み出したのが金城だ、という話だ。
 では金城哲夫がどうやってそんな怪獣を生み出したのかといえば、これが思うに、えらく洗練されたやり方だったと考える。
 金城の“きっかけ”は、日常の疑問や発見だったのだと思う。ふだん過ごしていて、“え?”と思うような違和感との遭遇。つまりは「アンバランス」だ。
 それを吟味し、拡大したり縮小したり、裏から覗き込んだり中へもぐり込んだりする。
 その結果現われるのは、ほかならぬ金城自身だ。さまざまな視点を考えるのも、そこから見えるものになにかを感じるのも、金城自身でしかない。つまり金城は、アンバランスを見つけ、それに入り込むことで、むしろ自分自身の姿、のある一点を見出すことになる。
 それを一旦自分から取り出して客体化し、生物っぽい性格づけをすることで、怪獣が生まれる。怪獣はだから、金城の中から生まれてくる。だがそれを一旦客体化しているので、金城そのものにはならない。
 そして、そうやって生み出した怪獣を、改めてバランスの世界へ投げ込むことで、アンバランスの再生産をおこなう。
 これが金城レシピなのではないかと俺は考えている。
 こういう段取りから出てきた結果、それはゴジラに連なる怪獣という種族でありながら、ゴジラと一切の関係をもたない存在であり得た。「ゴジラみたいなやつ」ではなくなった。
 これによって怪獣はゴジラの呪縛から逃れ、さまざまなバリエーションを備え得たのだ。

 太田 愛の創作作法は、これに近いように思う。
 クラウドスもそうだし、怪盗宇宙人ヒマラ(『怪盗ヒマラ』/『ウルトラマンダイナ』)も「あぁ夕焼けがきれいだなあ、これ抽斗にしまっておいて、いつでも眺められたらいいなあ」という「アンバランス」が起点なのだろう。
 ただ太田は、金城とおおいに違う部分を備えている。
 それは、アンバランスの見つけ方だ。
 金城作品に感じるのは、ごくニュートラルな感性だ。あまりにも真っ当な目で見るから、余人が気にしないことも立派なアンバランスになる、というもの。
 一方、太田視点は、そもそもにアンバランスだ。太田 愛というひとがアンバランスを備えていて、それを太田 愛の中のニュートラルが眺めているから、アンバランスが生じるという構造。
 金城的アンバランスは外部の刺激により生じるが(もちろんその刺激は金城自身が積極的に探しにゆくわけで、その意味では外部の刺激という表現はあまりふさわしくはないことは承知している)、太田的アンバランスは内的な情動により生じる。
 太田 愛というアンバランスをメタ太田 愛がピックアップするわけで、だから太田的アンバランスは常に内部からやってくるのだ。
 この点においても、太田怪獣は実に正統派なのだと思っている。
 むしろ、怪獣を積極的に表現素材として利用し、生(き)のままの主張を載せる上原正三の方が、変化球の使い手という観方を俺はしている。

 ……けっこうな分量を書いたから疲れたぞ。
 今日はこれくらいにしておこう。それが健康のためにはよい。
 今後もこの話題は体力に余裕ができた時に繋げてゆくつもりなので、この際だから新しいカテゴリーをつくっちゃうことにしよう。うん、そうしよう。
 まあとにかく、太田 愛さんの、ウルトラは、おもしろいので、みんな観たらよいなあと、思いました(いきなり小並感)。