かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

ウルトラマンの置きどころ

 ウルトラマン平成三部作は「ウルトラマンとはなにか」を問い続けたシリーズだったと思う。

ウルトラマンティガ』では突然“光の巨人”にされてしまったマドカ・ダイゴが、ウルトラマンとしての自分と葛藤を続けたし(だからもうひとつの可能性としてのマサキ・ケイゴはどうしても必要な人物だった)、『ウルトラマンダイナ』では基本的に能天気なアスカ・シンの代わりにTPCウルトラマンの存在意義を問うた。アスカ自身も最終的には、「君だけを守りたい」という意志が中心だという彼なりの結論に至っている。
 これら二作で、制作陣にとって“ウルトラマンでやりたいこと”は片づいたらしい。だがあと一作を求められたとかで(その辺の詳細はよく知らないご容赦)、「じゃあ全然違うことを」と生み出したのが『ウルトラマンガイア』だったと仄聞する。結果的にガイアは、拮抗するふたりのウルトラメンがシリーズ当初から登場するという異例のシナリオとなり、全体を見てもヒーロー物語というよりは根源破滅招来体をコアとする群像劇として、おおいに多面的な作品となった。
 だがそのガイアにおいても、ウルトラマンとは? という問いかけはずっと続けられていた。いやむしろガイアにおいてこそ一番強く問われていたといえる。
 これだけ本体が謎扱いされるヒーローというのも珍しい気がする。

 確かにヒーロー自身による自身の存在意義の模索は、遅くとも1970年代からずっと続いてきたモチーフではある。日本でのひとつの極みは、石ノ森版『仮面ライダーBlack』かもしれない。
 だがウルトラマンの場合は、だいぶ様相が違う。
 ひとつには、ウルトラマンの出自が地球外だということがある。
 だから地球上の生物とは、価値観が全然違っている……だろう、多分。
 つまりなにを考えているか根本的にわからない。文字通りに「何者だ?」という疑問だ。
 さらには、それなのになぜ地球を守ってくれるのだ、という疑問がある。
 多くのヒーローは“身内”だ。脅かされる者たちと同類もしくはごく近縁種。旅人が集落の(時には世界の)救い主になるのもヒーロー譚の王道のひとつではあるが、それとてさすがに異星人ではない。およそ同じような能力を備えた同類に過ぎない。
 だがウルトラマンは完全に異種だ。
 だからこそ“彼”がなにを考えているかがわからないし、やつがなぜ地球人に与するのかもわからない。これはそれこそ初代の頃からあった謎だ。
 これについて初代は単に「地球(人)が好きになった」としている。ゾフィーがそう要約してくれた。セブンはよくわからないが、やはり個人の趣味だったようだ。もともとセブンは恒点観測員であって、侵略宇宙人と戦う義務なんぞ負っていない。最終エピソードでは上司が突然現れて戦いをやめさせようとするぐらいだ。こういっちゃなんだが、上司的には「地球人なんか放っとけ」という体だ。
 それでもなおセブンが戦った理由は「アマギ隊員がピンチなんだよ!」のひとことに凝縮されている。つまり個人的な好意だ。

 そして、ウルトラマンがその存在意義を問われ続ける、さらに大きな理由といえば、「ウルトラマンが強すぎる」――これだ。
 デカいだけではない。小さくだってなれる。生身(と思われる)からエネルギー波を放つ。そのエネルギー波で生命体である怪獣を燃やす、ぐらいならまだ理解の範疇にあるが、爆発させたりもしてしまう。火薬が入っているわけでもなかろうに、なぜ爆発。翼もないのに空を飛べるし、やはり生身のまま宇宙空間へ出ても全然平気だ。宇宙へ出た時など、火星へ十数分で往復しちゃうようなものすごい速度を出せる。これはもう亜光速の世界だ。もはや圧倒的な強さといえる。

 なぜウルトラマンはそんなにも強いのか。
 ミもフタもなくいえば、それは「怪獣が強いから」だ。
 もともとウルトラマンは、これまでにも何度か書いたが、「毎週怪獣が登場するテレビドラマ」をつくるために後づけで生み出されたヒーローだ。だからウルトラマンは必然的に怪獣より強くなければならなかった。
 ではなぜ怪獣が強いのかというと、怪獣だからだ。
 あるいは天災の類、あるいは戦争や兵器などの人為の事象、時には創作者の中に蠢いて創作者自身という閉じられた世界を破壊しかねない謎の衝動。そういったものに生物のかたちを与えた想像上の存在、それが怪獣だ。だからそれは、天災や核兵器などに匹敵する強さを備えている。
 こいつらと毎週張り合わなければならないのだから、ウルトラマンは強くなければならない。最初から核兵器に匹敵する強さを背負わされたヒーローだったわけだ。

 だが、それがとにかくドラマとして成立すると、今度はその強さに改めて疑問を抱くようになる。
 制作側も相当に悩んだろうが、もっと悩んだのは、そのドラマを見て育ったこどもたちだ。
 小さい頃は“つよい! わー! すごい!”で済んでいたが、それなりに育ってくると悩まざるを得ない。
 あいつらはいったいなんだったのか。
 まともな知性をもつひとに育てば、そう考える。
(あんなこどもだまし、という結論へ簡単に行き着くのはまともな知性とはいえない。断言)

 そんな時、やはり『ウルトラセブン』は、偉大な作品として屹立している。
 考えるきっかけ、あるいは取っかかりが、ちゃんと内包されているのだ。
 ドラマの中におけるセブンの置かれ方は、どう贔屓目に見ても「地球防衛軍の最強兵器」だ。
 いうまでもないが、モロボシ・ダンはセブンが変身した姿で、だから内面的にはダン=セブンという共通の“人格”を備えたものであるはずだ。だが一度変身すると、そのメンタリティに連続性があるとはいい難い状態になる。ダンがどれだけ超兵器R1号に疑念を抱いていようと、いざセブンになれば(苦戦はしつつも)迷うことなくギエロン星獣を殺しにかかる。同じメンタリティとはちょっと思えない。(それが宇宙人の感性だといわれたらそれまでなのだが)
 結果的にセブンは破壊専任となり、兵器と変わらない位置づけになってしまう。

 これには制作上の事情もあったようだ。
“こどもたち”が期待するのはセブン対怪獣の格闘であり、しかし制作陣はドラマに相応以上の内容を盛り込みたいと望み、結果的にドラマ部分とセブンの場面は乖離せざるを得なかった……ものと思われる。要はドラマは人間に、アクションはセブンにと、二十数分を分割した結果だ。
 しかしこれは、ウルトラマンというとんでもない存在が最初からかかえていた問題ではあった。初代では“人間ががんばって届かなかった時に現れる救済”、いわば神という位置づけにすることで解決を試みていたが、セブンでそれが殊更に語られることはなかったと記憶する。
 あるいはセブンでそれを取り上げなかったのは、初代でそれは解決済みとしたからかもしれない。だがこどもにしてみれば、セブンの置きどころはどこかという課題、これは実によいきっかけになった。その乖離――ダンとセブン、地球人と宇宙人の乖離は、違和感としてずっと記憶に残り、そして改めてウルトラマンを考え始める時の実に捉えやすい課題になったからだ。
 ウルトラマンとは何者なのかというより大きな問題を考えるための、ひとつのわかりやすい切り口。それがウルトラマンの置きどころだったのだ。

 平成三部作は、その他にもさまざまな課題があるQ−マン−セブンに対する、放映当時の視聴者たちの解答シミュレーションとして成立していると思う。
 たとえば、ティガ/ダイナでは、マン/セブンでもうひとつ曖昧だった地球防衛組織について、TPC=地球平和連合という具体的なビジョンをつくり、それが国連解体とともに構築された新たな世界統合への動きと関連づけて設定された。怪獣は想定外の存在だったとして防衛隊は最初にはなく、総合無制限対応部門(Global Unlimited Task Squad=GUTS)がその任に就くことになる。この辺は初代の科特隊(軍事的な集団ではなく国際的な警察機構の一部門)と似ている。
 そして“ウルトラマン”は地球外生命体ではなく、もとから地球に存在したもの、たとえ最初は来訪者であったとしても、相応以上の期間に渡って地球に居住したものたちと設定し直され、その“力”が特定の条件を備えた者に引き継がれることがある、とした。
 これらはすべて、初期ウルトラシリーズで「?」だった部分を、平成の制作者たち=かつてのこどもたちが、自分たちの学んできたことを集めて埋めた、そういうものだったと思う。
 だが、それにしても。
 どうしたって扱いに困ったのは、ウルトラマンの位置づけだった。
 それは平成シリーズにおいても大きな課題として、つまりTPCやG.U.A.R.D.のように理詰めの手段では解決することができなかった課題として、ドラマシリーズを通じて問いかけられ続けることになる。
 あるいは、それを問い続けることこそ、ウルトラをやる意義、だったのかもしれない。

 ……と、ここからが本題のハズなんだが、もうずいぶん書いてしまって(一行20字詰めで250行=原稿用紙12枚以上)疲れたから休む。
 続きはいつか書くと思うが、多分明日じゃないと思う。
 ごめん。


2019-04-14『ウルトラマンの置きどころⅡ』
https://st79.hatenablog.com/entry/2019/04/14/225958
2019-06-20『ウルトラマンの置きどころⅢ』
https://st79.hatenablog.com/entry/2019/06/20/182008