かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

ウルトラマンの置きどころⅡ

※前回『ウルトラマンの置きどころ』https://st79.hatenablog.com/entry/20181130/1543601492 別に参照しなくてもよいです※

 それにしても昭和初期作群でのウルトラメンの扱いは、よくできていると思う。
 その辺をちょっとおさらいしたい。
 象徴的なのは、『ウルトラマン』第一話『ウルトラ作戦第一号』でのイデによる土台づくりと、『ウルトラセブン』第一話『姿なき侵略者』でのモブの反応だろう。

 前者は、とにかくイデの“立ったキャラ”を最大限有効に活用しつつ、身長40メートルの宇宙巨人ヒーローという前例のない“概念”を無理やりに実現した、ものすごいエピソードだった。それこそ“神回”だ。
 初回なのにイデのキャラが立っているのなんのというのはおかしな話ではあるが、しかし充分に立っているんだから仕方ない。
 それがどんな風に進んだかというと。

『ウルトラ作戦第一号』、前半には各隊員の個性が端的に表現されるシーンが並ぶ。
 ビートル二号でパトロール中のハヤタ、まあこれは特に印象的でもない。強いていえば、あんな見たこともないスゴいヒコーキをひとりで預かり空を警戒するってんだから、このヒト相当にスゴいんだな、とりあえずカッコイイな、という感想になるか。
 続く基地内のシーンでフジ隊員のオペレーター的なポジションがわかり、そのフランクなやりとりでおきゃんな性格が見える。どうだ昭和っぽい表現だろう。指示を下すムラマツ隊長はパイプを片手に悠然と構え、それでいて指示はきびきびとして、いかにもリーダーらしい風格を漂わせる。次の基地内ではアラシ隊員が電話を取り、短く刈り込んだ髪や微妙に荒っぽい声音で“あーこのヒト体力のヒトだ”との理解へ至る。
 この時点までで、イデの出番はないようなものだ。
 ただ、上背があってスマートで、髪はおしゃれな長め、いったい何者? という感じはある。隊長がいて連絡係女子がいて体力自慢がいたら、残りのポジションはナニよ、という感じだ。
 その後面々はビートル二号墜落現場へ急行し、イデは機体の第一発見者となる。
 ここから先は怒濤だ。
 まず炎上している機体を見て、あろうことか「あれじゃ助からねえなあ」と言い放つ。そこにはハヤタが乗っていたのだから、これはあまりにもあまりな放言。さらにイデは、状況を説明する一般人に対して「そんなバカなァ」と呆れたように言っちゃったりする。おかげで地元の警官とは一触即発状態となり、ムラマツ隊長が尻拭いをする展開に。
 この辺で“もしかしてこのヒトお調子者?”という流れが発生。

 なおこの辺りのやりとりで、実は重要なセリフがある。
 ホシノ少年にムラマツ隊長が言うもので、ハヤタの安否をたずねるホシノ少年に対し、ムラマツはこう答えるのだ「ハヤタのような立派な男を神さまが見捨てたりはしない」。
 これは『ハヤタを助けるもの=神さま』という遠回しな示唆になっていると思う。そして実際にハヤタを助けたのは“ウルトラマン”なのだから、つまり三段論法でウルトラマン=神となる仕組みだ。

 その後ベムラーが湖中より登場、ウルトラガンで応戦したムラマツ・アラシ・イデの三隊員だが、ベムラーはちょっと顔を出しただけでまた湖底へ戻る。それを見てイデが言うには、
「寝ちまったんじゃねぇのかなあ」
 もう決定。コイツはお調子者。
 さらに特殊潜航艇S-16号を湖まで搬送したフジ隊員に関するやりとりでは、今どきでは到底放映できないような軽口を叩きまくり、フジ隊員本人にたしなめられたりもする。
 なんでコイツが、“パリに本部を置く国際科学警察機構の日本支部”の、宇宙からのあらゆる侵略から地球を防衛する重大な任務を預かる五人のうちのひとりなんだ、と思う。
 なにしろパリだからね国際だからね。1963年まで日本人は、戦後の占領地管理の一環で、観光目的での海外渡航ができなかったんだぞ。かなり自由に行き来できるようになったのは1966年、『ウルトラマン』の放映開始はまさにその1966年だ。パリひとつにしても、今とは重みがぜんぜん違う。しかも宇宙だぞ侵略からの防衛だぞ。とんでもないエリートだ。なのに「寝ちまったんじゃ」ってナニよ。
(余談だが、赤塚不二夫『おそ松くん』は1962~69年の作品であり、従って“おフランス帰り”のイヤミのスタンスにもそういう背景がある。今どきとは違い、それはマジもんのすごいステイタスであり、ゆえに嫌味に満ち、さらに「こいつが行けるワケねえ」という具合でウソがもろバレというカッコ悪さにも繋がったのだ)

 という流れがあってウルトラマンが登場し、“ニンゲンと怪獣のつかみあいの大格闘”というとんでもないことをテレビで始める。サンダやガイラみたいな半獣人じゃないぞ。銀色でぴかぴかだ(といっても当時まだまだテレビ受像機は白黒が多いわけで、だからかなりの数のこどもたちは灰色乃至白と認識していたはずだ)。
 それを見てイデは、まさにこどもたちの代表として、奇声を発し拳を振り回しながら大喜びしている。もうキャラ立ちまくり。こどもたちの、「あっこのひととはトモダチになれる」というところへ、すでに飛び込んでいる。
 そのイデが、だ。
 ウルトラマンのカラータイマーが赤くなり点滅し始めたとたん「危急信号でしょう。赤ランプは万国共通ですからね」と理路整然としたことを言う。あのムラマツ隊長さえその意見には否定的なことを言うが、やがてウルトラマンは苦戦を強いられ、イデの“発見”の正しさが証明される。ここでこどもらは思う“そうか、これか! これがコイツが科特隊にいる理由だ、コイツめっちゃアタマいい!”一転、尊敬のまなざし with 親近感。
 その後、人間体へ戻ったハヤタの発見も第一の出迎えも、謎の宇宙人についてハヤタに「ウルトラマンってどうだ」と言わせるのもイデの仕事となる。

 この一連で、ウルトラマンに関して、場を切り盛りし視聴者へ伝える、というより視聴者を代表してハヤタに疑問をぶつける役目を果たしたイデの功績は大きい。
 宇宙巨人ヒーローというすごすぎる存在を、イデという、なんか難しい組織にいる親しみのもてるお調子者が、視聴者の中心であるこどもたちへしっかりと伝えたわけだ。
 この“仕事”は大きい。
 宇宙からの侵略すら日常茶飯という“異世界”への導入係を、イデは見事に果たした。
(そしてそれは、第二話『侵略者を撃て』でさらに強化される)

 一方、『ウルトラセブン』では、地球防衛軍というガチな組織への異分子としてモロボシ・ダンが混ざり、これは友里隊員(って誰だと思うなよアンヌさんのことだ)のイレギュラー極まりない対応で強引に着地させられているのだが(「ダン! あなたの地球がピンチに立たされているのよ、なにか敵を倒す方法はないの?」という語りかけで、風来坊ダンはいきなり地球防衛の最前線へひったてられている)(今気づいたが、このセリフって最終回のダンの「アマギ隊員がピンチなんだよ!」と対応してるのな)、やはりウルトラセブンという“異形”への対応は遅れがち。
 実際のところ、セブンの第一話での活躍は捕らえられた一般市民の救出ぐらいで、その後クール星人の円盤を宇宙へ運び出し破壊するという“任務”は果たすものの、救出してもらえた市民から「あれはなんですか、なんですかあれは!」と指さされているという体たらく。
 宇宙からの侵略が当然のこととして受け入れられている世界において、ウルトラセブンは“あれ”扱い。しかも第二話まで名前すらなく、ただ友里隊員の「ウルトラセブン、がんばって!」の励ましで“ああ、やっぱこいつがセブンね”とわかるという具合だ。
 もちろん当時からメディアミックス的なことはあり、こども向けマンガ雑誌などでプレビューはあったから、事前知識としてトンガラシ巨人がウルトラセブンということは、こどもたちの間の了解を得ていた。だがドラマ内世界においては、解説ナシなのだ。
ウルトラマン』で説明がすんでいたし、最終回ではその動機も明らかにされた、そのあとの番組(もっとも時系列的には半年間の『キャプテンウルトラ』が挟まるわけだが)とはいえ、ちょっと扱いがぞんざい過ぎる気がする。

 ただこれは、後続のエピソード群全体を考えたりした時、そういポジショニング、ヒーローとしてではなく武神もしくは最終兵器としてのセブン像が、すでに端的に表現されたものだった……といえなくもない。
 即ち、ウルトラセブンはそもそも“キャラクター”ではない、ということだ。
 ウルトラマンは初回に、ウルトラマン自身のセリフをもっている。くぐもった笑い声まで聞かせてくれて、充分な“人格”のもち主という扱いだ。
 だがセブンは、セブンとして語ることがない。語るのは常にダンだ。セブンの姿の時でも、語り始めたらダンになってしまう。トンガラシ巨人は常に闘うだけだ。
 ここに二作の大きな違いがある。
 ウルトラマンは、初回のムラマツ隊長の発言を起点に、第七話『バラージの青い石』なども経つつ、「人間がとことんまでがんばったあとに訪れる奇跡」、つまり神もしくはその使者というスタンスで扱われる。これまた余談ながら、それゆえに海外でのセールスは奮わないのだと思う。これは、基本的に多神教的、もしくは無宗教に近い日本人だから受け入れられる話なのであって、すでに神をもっているひとびとにとって、ウルトラマンは demon(≠devil) なのだ。ウケるわけがない。
 一方ウルトラセブンは、地球防衛軍の最終兵器。なにしろ地球防衛軍ウルトラ警備隊の隊員であるモロボシ・ダンが当人なのだ。起動は隊員自身の担当なのである。神の意志ではない。たまさかそれが超能力を備える宇宙人であるだけで、だからダンはしばしば、個人としての感情より任務を優先して、セブンとなる。

 これは、両極端といっていい。
 そしてその後ウルトラメンは、まさにその両極端の間で、どっちつかずの扱い(というか「シナリオの都合次第でどちらにも置かれる“力”」としての扱い)を受けることになる。この辺、等身大でそもそも個人である仮面ライダーとはずいぶん違うし、ゆえにこそウルトラ、近年はもうひとつパッとしないものになっちゃっている。
 こうなるといっそ『スーパーロボット マッハバロン』の、廃棄を前提とした兵器という置きどころの方が、よほど理路整然としているしおさまりがよい。

 なぜこんなことになるかといえば、前回も書いた通り、その力が絶大すぎるからなのだが。
 要するにウルトラメンは、その登場の瞬間からして、置きどころに工夫が必要なものだった、扱いがおそろしく難しいものだったというわけだ。
 そしてそれは、初期二作においてすでに両極端のかたちで“結論”を明示されていた。
 しみじみと当時のスタッフのものすごさに感じ入るばかりというお話。

 今日も結論はないよー。
 どころか今日なんかそもそもテーマがないかもしんない。
 長々とごめーん。


2018-11-30『ウルトラマンの置きどころ』
https://st79.hatenablog.com/entry/20181130/1543601492
2019-06-20『ウルトラマンの置きどころⅢ』
https://st79.hatenablog.com/entry/2019/06/20/182008