かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

セブンがおもしろいの。

 どういうわけか突如『ウルトラセブン』を再鑑賞し始めた。
 といっても一気にぐわーっと入り込むのではなく、半ばはバックグラウンドビデオ的に流して、音ばかりを聞くという感じなんだけどね。
 しかしアレだ、そういう邪道極まりない見方をしても、充分におもしろいねセブンは。
 そしてしばしば音に惹かれて画面を拡大する。
 あー、ちなみにPCで見てるんで。ひとつのディスプレイにセブンも iTunesメーラーもウェブブラウザもエディタも常時全部出てるから。
 こんな感じね。

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 まあさすがに音楽とビデオの同時再生はしないけどw いやウチのPCのスペックが低いせいか iTunes の立ち上げにちょっと時間がかかるのよ。一分ぐらい。それを待つのがヤだから、常にミニプレイヤー状態で待機させてんの。
 今日はブログの文字書きしかやっていない状態だが、本格的に仕事の作業を始めるとさらに開いておくウィンドウが増える。ウェブブラウザでも新しいタブを開きまくる。すべて資料。さらに机上に本やらなんやらが積まれる。ほぼカオス。それがマイスタイル。百五十文字分の原稿のために万の文字を漁る、これ基本。
 それがつまり……じゃなくて、『ウルトラセブン』がおもしろい、という話だったな。いかんいかん、戻らねば。

 当時のドラマのようなものは全部がそういうものだったのかもしれないが、セブンは、映像だけで説明しようとはしない。
 もちろんセブン対侵略者のバトルシーンは映像中心になるものの、物語自体、つまりいわゆる本編の部分はむしろ台詞が多い。
 じゃあ話をことばだけで紡いでいるのかというと、もちろんそうではなくて、役者さんたちの演技も、それを追うカメラも、編集も、すべて当時の渾身のものである上に台詞も加わっているという状態。
 しかもその台詞がかなり練られた印象で、つまり何万文字分の内容を削りに削って三行にまとめたような“仕事”になっている。
 そりゃあ中身も濃くなるわけだよね。

 どうして台詞が増えるかといえば、それが空想科学譚としての風合いを強く備え、ゆえに背景になる科学や技術をそれなりに説明しなければならないことが大きいのだろう。
 中にはたとえばワイルド星人の生命カメラのように、われわれの技術をあからさまに超えた、もはや魔法の域にある品も出てくる(第11話『魔の山へ飛べ』)。まあその品の仕様も、アマギ隊員をリーダーとする科学班が解明しちゃうわけだから、われわれの技術と地続きのものだったようだが。
 そういう品々や現象を紹介するためにも、台詞の量は不可欠だというわけだ。問答無用でべんりどうぐを出すわけじゃない。
 もちろん人間関係などの説明もあるが、その辺はむしろ役者さんの演技力のパート。そういう場面ではむしろ台詞を削っている。

 それで改めて思った。
 セブンの頃ってすごく真面目に物語をつくっているのよな。
 一応の“課題”として、セブンは必ず登場する、登場して見せ場をつくる、というルールはあるものの、そこへ至る道程というものが必然の積み重ねになっている。
 その必然が、安易ではないわけよ。
 たとえばの話、怪獣が出現→防衛隊出動→かなわない→ウルトラヒーロー登場、というのは、一応それなりに必然の積み重ねではある。あるんだが、セブンの場合そのひとつずつがさらに細かい。
 防衛隊の出動自体をがっちり描いたり、かなわないならかなわない理由を理路整然と語らせたりするわけだ。ただいきなり戦闘機がぶわーッと飛んで、ばしゅばしゅっとミサイルを撃ち込み、多少の火花が散ったら「効果ありません!」……なんてことにはしない。
“怪獣”は強いに決まっているわけで、それに対する準備だって相応にしている。だからたとえば、逃げ出した侵略宇宙人の乗り物(いわゆる円盤というやつ)の破壊はみごとにやりおおせたりする。追跡し攻撃するだけの装備があり、それを活かしているのだ。
 それでもなお……という組み立てになるから、セブンの登場にも説得力というものが出てくる。ていねい、というよりも“まともな神経”でつくっている。
 怪獣が出てきて街を壊し、それをヒーローが退治すればいいんだろ? というナメたつくりではない。いや別に他作のどれがナメているという話ではないよ念のため。

 そしてセブンは、負ける時には負ける。
 それを根性でなんとかしたりしないし、強化セブンに再変身して……なんてチートなこともしない。新たな科学技術で地球人がなんとかしたり、その地球人とセブンとのコンビネーションで撃破したりする。
 つまり限界は常に設定されていて、その限界は越えるためにあるものではなく、越えられないからこそ限界ということになっている。
 これ、重要なことだと思うんだよなあ。

 確かに人間は、信じたり愛したりすることで常にはない力を発揮できるものではある。
 だが、じゃあ気合いを入れれば1tの重さを持ち上げられるかといえば、それはない。
 だから人間は工夫をして機械を発明したりするわけで、そして機械の発明や制作には相応の時間や手間がかかる。だから1tを持ち上げることに称賛もわくというものだ。
 そしてもちろんそれらの対策は、充分に納得できるものでなければならない。その対策自体が必然の産物でなければならない。
 これが気合いを入れたから持ち上がりましたってんじゃ、まさに“お話にならない”。
 そういう必然を重ねること自体がつまり“お話”だからだ。
 その辺に対する“まとも”な感覚が、おもしろいドラマをつくるんだよね。
 そしてセブンは、あっちにもこっちにもその“まとも”が埋まっている。
 だから何度見てもおもしろい。

 がんばればなんとかなる。
 それを学び信じることは大切なんだが、ただ闇雲にがんばっても意味はない。
 それを知って、意味のあるがんばり方を考えることも、その考え方を学ぶことや考えるための材料を集めることも、ぜんぶ大切なことなんだよ。
 そこら辺のこと、あるいは最も重要ともいえることを、今どきの“ドラマ”は、どこかへ落っことしてきちゃったように思えるんだな。
 だから見ていて次第にフラストレーションが溜まってくる。また根性論かよ。熱けりゃなんでもできるのかよ。それって逆に人間をバカにしてねえか? 一時の熱情でどうにかなるんなら、これまでそれに破れてきたものたちはみんな根性足りなくて届かなかったことになるぞ。そういうものたちをぜんぶバカにしてんのか?
 信じるのと同じくらい大切なことを、なにかぼこっと忘れちゃってねえか?
 それとも、わざとそれを学ばせないようにしてるのか?
 おい、どうなんだ?

 セブンを「おもしろーい、おもしろーい」と見ながら、そんなことを考えていた。
 どうもアレだね。齢取ると鬱陶しくなるばかりだね。
 もっとこうたのしくできんものかな俺という人間は。