かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

『GODZILLA KING OF THE MONSTERS』観てきた (※ネタバレあり注意)

 空前の財政危機なのだ。
 なにしろ今年に入ってから仕事をしていない。
 昨年暮れにひと仕事やっつけた、その蓄えもついに尽きなんとする今日この頃。
 本来だったら二月中にまとまった仕事が入る予定で、そのための時間も確保しておいた。それをやれば当面秋までなんとかなるはずだった。ところがその仕事に横槍が入り、俺の出番がなくなってしまった。これは大誤算。まさか過去の亡霊が墓場から蘇るとは。
 まあ詳しいことを書いてもおもしろくないので省略するが、そんなわけで現在、生活を維持する以外のことがほぼできない状態にある。(なのに煙草はやめない俺って)
 でも。
 これは大画面で観ないと後悔すること間違いなし……という映画があった。
 つまり『GODZILLA KING OF THE MONSTERS』だ。

 別に俺はゴジラマニアではない。
 だが俺は怪獣が好きだし、初代『ゴジラ』、二作め『ゴジラの逆襲』、中飛ばして『三大怪獣地球最大の決戦』はマストといっていい作品だと思っている。
 一応『キングコング対ゴジラ』『モスラ対ゴジラ』はこどもの頃にテレビで見た。『怪獣大戦争』は1971年の短縮版を劇場で観ている。そのわりにリアルタイムというべき作品群、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』以降はぜんっぜん見ていない。唯一の例外が『ゴジラ対ヘドラ』だというのが俺らしい。
 平成シリーズはほぼスルーでテレビ放映を見た程度。ミレニアムシリーズは『ゴジラモスラキングギドラ 大怪獣総攻撃』(GMK)だけツタヤった。マグロ食うやつは旅行先のテレビで見た、それで充分だった。
 でも『シン・ゴジラ』には感動を覚えたし(参照⇒ようやく『シン・ゴジラ』を観た - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』)、2014年には今回の作品の予告編も観ている。
 ぶっちゃけゴジラに関しては、第一作めだけが名作だと思っている。『シン・ゴジラ』は、その正統にある“まったくの新作映画”として傑作だ。
 だが本家シリーズは二作め以降そう大したもんでもないと思う。GMKはたまたまその造形をうつしたソフビ人形を入手したので、その活躍ぶりを確認するためにツタヤったものの、印象的だったのはワンシーンのみだった。
 ところが一方、今回の予告編映画、2014年の『GODZILLA』は、劇場で観て、ふつうにおもしろいと思った。傑作とは思わなかったが、まあ予告編なんだから仕方ない。とはいえそれでも、『怪獣大戦争』辺りよりはよほどゴジラを的確に解釈していると思えたし、少なくとも「ちくしょうめ金出して損した」と思うようなものでは断じてなかった。
 そして今回の作品、タイトルがいちいち長いんで面倒だから今後『キンター』と略すが、これが周囲で大変に評判がよろしいのだ。
 この“周囲”というのは主にウェブでやりとりするひとびとだが、彼らはまたNHK大河ドラマ『いだてん』を絶賛するひとびとでもあり(参照⇒いだてん現象 - かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』) 、その“目”は信頼に値する。
 ならばこれは観なくてよいものではあり得まい。

 という事情がありつつ結局、財政危機、二十八歳で会社を辞めてフリーライターになった時より酷い危機にあるにもかかわらず(あの時はそれでも退職金があって半年間はどうにかなるって状況だったからね)、「まあなんとかなるさー(たぶん)」という根拠もなにもない呑気さで、鑑賞を決めた。
 で、前後の事情も考えると「あ、今日しかねえなー」ということになり、21:20スタートの最終回字幕版(終了が23:40だ)を、自転車とばして観てきたよ、と。
 行ってみれば今日はナントカの日で映画自体は¥1,200で観られるという吉日。通常は¥1,800だから、これはツイているとしか。だもんでちょっと贅沢してパンフも買っちゃったよ(¥850。結局足が出とるやんw)。
 んで、観ての感想ですが。

 これは確かにすばらしい。エックセレントな怪獣映画だ。
 そして大画面で観ないといかんやつだ。間違いない。
 この無謀な投資、勝ちだな。うん。勝ちだ。

 前作でも登場した対怪獣組織モナークはその後も地味に活動を続け、地球各地で“巨大生物”――タイタンと総称される――待てよ『進撃の巨人』って英名が確か『Attack of the Titan』じゃなかったか――監督すげえ日本びいきなんじゃねえのか――の発見と捕獲、研究に勤しんでいる。
 その研究課題の中に、怪獣が発する音、声とは限らず心臓の鼓動や呼吸その他の音を使った怪獣との「会話」というものがあり、そのインタープリターが完成したところから物語が始まる。
 その開発者が、怪獣というものを「増えすぎて地球を滅ぼすであろう人類をある程度減らし、地球が地球としてのバランスを取り戻すために目覚めさせた人類の天敵」と解釈。それでよろしくない別組織と結託し、怪獣による淘汰の促進を目論む。
 ところが、インタープリターを使って覚醒させた怪獣・ギドラの正体は……という話。
 これが、真の怪獣王・ゴジラの、正味の覚醒によって、解決するわけだが。

 いやー、ホント破壊の規模が違うわ。
 たとえばラドンが覚醒してね、日本のオリジナル『空の大怪獣ラドン』だと、博多の街がラドンの飛翔による疾風というか大風というか、まあとんでもない空気の流れで吹っ飛んだわけですけどね。
 まったく同じことをメキシコ辺りでやらかすが、規模も描写もぜんぜん違うわけだ。
 そりゃね、半世紀も前の映画と今の映画を比べるのはそも酷ってのはわかる、わかるけどね。カメラのアングルといい車や家やひとの飛びっぷりといい、もう文字通り桁違い。
 さらに、監督が東宝オリジナルをよーく観てきているのもわかる。
 東宝オリジナルのラドンが最後は火山の噴火により焼け死ぬ、あっ、これ今さら気づいたけどアレじゃないか指輪の“翼を持つ獣”が滅びの山の噴火でくたばるのと同じじゃないか。あぁでも今はそういう話じゃないね、そうラドン阿蘇の噴火で焼け死ぬわけで、その断末魔の羽ばたきは恐ろしくも哀しく美しいシーンだったわけだが、キンターでのラドンはよりによって噴火のごとき爆発の中から現れるのだ。その禍々しさといったら。
 おまけにその勢いもあってのことなのか、飛翔する時でさえ翼の端に炎のかけらをひっつけている。この辺、映画『ロード・オブ・ザ・リング 旅の仲間』ラストに現れたバルログのごときであって、やはりあの辺の映像は怪物描写シーンの一種のイコンになっているんではないかと思ったり。
 とにかく監督の思惑としては、火山で果てたラドンに、なんとか火山へ一矢報いる場面を準備したかったんじゃなかろうか。
 もちろん東宝ラドンには、火山活動による地熱の上昇で孵化した、という設定があるわけで、誕生と火山は無縁ではない。ないが、その火山に焼かれたのも映画的事実だ。それを監督は引っ繰り返したかったように思えて仕方ない。それくらいのラドン愛を感じる。
 モスラが人類の味方、というよりは地球的平和の象徴であるという点も、原典を忠実になぞっていた。いやこれがね、ホント華麗です。散り際(そう散ってしまうのよモスラは)には、GMKの影響も見受けられる。モスラ独特のキィンという鳴き声、これも大切にしつつ、より美しい要素を加えた。それどころか成虫の登場時には、迷わず古関裕而によるあのメロディをきちんと出した。
 いやホント原典をよく観てるわ。もうそこいら中から「自分、東宝怪獣大好きなんス! マジっス!」って熱い思いが溢れてるわ。溢れて溢れてとまらない垂れ流しの愛だわ。ピーター・ジャクソン監督が中つ国が大好きであるのと同じように、マイケル・ドハティ監督は東宝怪獣が大好きなんだ。それがよくわかる。

 そしていうまでもなくゴジラには。
 決定的な復活を果たす時に、伊福部メロディ当ててきやがるんですよ。
 これはもうね、監督の覚悟を見た思いだったよ。

 え。ドラマは、って。
 んー、わりと、まあ、いいんじゃない? うん。悪くないよ。
 中軸になるのは、動物学者のマーク・ラッセル一家。一家は前回のゴジラ襲来時に長男を失っている。マークはそのショックから現実逃避、立ち直った今も人間から離れオオカミの生態とかを追いかけている。一方妻のエマはその遺恨から怪獣研究にかかわり、モナークにも参加している。後半の鍵を握るのは娘のマディスン。この一家のリユニオンが一応ストーリーの真ん中にあり、マディスンを救うためならモナークの戦闘部隊がいっこ丸ごと潰れてもかまわんという体。
 そこに前作から引き続き登場するのが、モナークの芹沢博士とグラハム博士(女性)。さらにモナークの次世代・次々世代として、コールマン博士(男性)やチャン博士(女性)が登場、軽いノリの統括係としてスタントン博士(男性)、敵対組織の不気味な頭領としてアラン・ジョナなる老境に入りかけの男性が出てきて、話を引っかき回す。
 だが彼らが織りなす人間側の物語は、ラッセル一家のどたばたを含めて、なべて効果的とはいえない。ことにマディスン絡みの人命の軽重どーでもよい的展開は、見ていてくたびれる。
 というのも、この映画では人間が本当に虫けらのごとくに潰れてゆくのよね。そんな中でマディスンひとりが助かったからってどーなの、という気がしてくる。そういうバランス感は決定的に悪い、といわざるを得ない。

 そう、バランス感が悪い。これは前作と同じ。
 怪獣映画というものはニアバイ・ディザスター映画であって、怪獣という災厄を巡って展開する人間たちのドラマが物語になる。そういう風にしかつくれない。怪獣に余分なドラマをになわせることは、イコール怪獣の人間化であって、人間化してしまったらそれはすでに怪獣ではなく、従って怪獣映画としては成立しない。
 この映画でもその“鉄則”は守られていて、だから怪獣側に人間が理解可能な物語は存在しない。そこに物語性を見出すのは観客個々の嗜好によるもので、怪獣の乱闘(マジ乱闘)に人間が理解できる要素はほぼない。もちろん科学者たちによる解釈はあるが、それは解釈に過ぎず、物語として成立させ得るものではない。
 ではこの映画が傑作たる由縁はなにか。
 それはもう「怪獣大暴れ」に尽きるのだ。
 つまり物語性がどうのというのではなく、人智を越えた Titans のバトルそれ自体。
 観ているうちに途中から人類のことなんかもうどーでもよくなってくるw
 突き抜けるゴジラへの憧れとギドラへの嫌悪感、その激突と、その余波でぐっちゃぐっちゃに壊れてゆく人間の文明。それをひたすら堪能できる。
 じゃあ破壊キライってひとには見るべきものがないのかというと、そこばかりはきっちり始末をつけているのが立派なところだ。
 物語後半、芹沢博士は命を賭してあることをなし遂げる。その原動力はなにか。それはゴジラに対する畏敬であり愛情であり憧憬であり……要するに「人間以外にはおそらく抱きようもない感情の花束」なのだ。

 芹沢博士を演じたのは、前作に引き続き渡辺 謙。これがもう大活躍で、個人的にはラッセル一家よりこっちの方が主人公だ。
 しかもその役割や展開が第一作め『ゴジラ』とかぶり、しかし正反対なのがおもしろい。
 これは監督のアイディアなのだろうか。だとしたら、こんな優れた再解釈あるいは再定義はない。マニア愛の極みもいいところだ。セリザワという名に正味新しい価値を加えたと思う。絶賛する。
 台詞中で、わりと違和感のない英語を使うのは前作同様だが、それでも「ゴジラ」の発音だけは「ガッヅィーラ」ではなく「ゴジラ」だったのもすばらしい。
 そういえば兵器の名称としてオキシジェン・デストロイヤーも出てくる。出てくるが、これはマニア性の発露のひとつでしかなかったな。それよりも芹沢博士が携えたあるモノがちょっとばかり初代のオキシジェン・デストロイヤーのオマージュになってて、そっちの方がインパクトあった。
 とにかく芹沢博士大活躍。
 その点も含め、前作は今回の予告編に過ぎなかった(前作での芹沢博士はあまりにも中途半端なポジションにしかなかった)という感が強い。洋画はしばしばこういうものすげえことをやるんだよなあ。ピージャクの指輪三部作+三作、その第一作めの『旅の仲間』を観た時にはブッとんだが、続く『二つの塔』『王の帰還』と、作が重なるたびに「うわ前作は予告編だったか」と思った。え。『マトリックス』。んーまあ映像的には確かに進歩激しかったよねムニャムニャ。(それより能力のインフレがすごかったよな)
 さらに今回、次作とされる『キングコング対』の布石がくどいほどに入っていて、なんだよこれだけやらかしといてこれも予告編かよ、となるかもしれない。だがそれへのはっきりとした期待をもたせてくれる以上、やはりこれは傑作なのだ。

 そうそう。あとチャン博士。
 個人的には彼女がちょうツボった。
シン・ゴジラ』での尾頭女史を思わせる存在感。それでいて、中国出身という設定もあり、ある点では芹沢以上にゴジラの本質を語っていた。
 途中ものすごく首肯したのは、東洋と西洋での“怪獣観”の差異の説明。
 ヨーロッパにおける dragon は邪悪で排除すべきものだが、東洋での龍はむしろ人間を超えて優れた存在で、しばしば人間に智をもたらすものでもあった、という解説をする。
 もちろんヨーロッパの dragon にも龍めいた要素あるいは個体はあるようだが(gold dragon とかの)、この辺の話は伝説における神格の研究と関連するような話で、こういう解釈で「敵は排除」を旨としてきたヨーロッパ文化を客観視するというのには、やはり監督タダモノではないという印象がある。
 ゴジラを始点として、きっとさまざまな怪獣譚を漁ったひとなんだろうなあ。
 それを東洋人のチャン博士(俺の中ではすでに「中華尾頭」として定着)に語らせる辺りも、わりと憎い演出という感じ。まあ欧米系に語らせても説得力ないけどな。

 ただ、放射能に関する描写の甘さはなあ。ちょっとなあ。
 全身に放射能エネルギーを充満させて海面を割って現れるゴジラが巻き上げた水しぶきをわざわざ浴びにゆく神経、ちょっとでなくわからん。俺だったら絶対に外へ出ない。
 あいつらあとで後遺症でえらいことになるぞ。それこそ第五福竜丸の再現だ。いやそれで済めば御の字。下手したら東海村JOC臨界事故。ううう。

 ともあれ、怪獣映画としてすばらしい作品であることは間違いない。
 二作め以降のゴジラ映画の、超ハイグレードなアップデートだ。もちろんというのもなんだが、『シン・ゴジラ』とはジャンルが違うので、比較に意味はない。
 未見のひとは暇みつけて行くが吉。
 きっといいことがあるぞ。俺が割引日に偶然当たったぐらいのことは起き得る。
 いってらっしゃ~い。