かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

とっくに外つ国

 長いこと外つ国(とつくに)に住んでいる。

 確か29歳の終わり頃だかに仕事場兼仮眠所をつくり(といってもワンルームマンションの一室を借りただけで、とんてんかんてんと槌を振るって制作したわけではない為念)、生活の半分以上をそこで営むようになった。
 いわゆる実家を出て独立したというやつで、多くのひとはそうして自分の人生とかを組み立ててゆくものなのだろう。
 とはいえその時には、生活を完全に実家から切り離すことはできなかった。
 なんとなればその部屋は狭く、資料になる本の類を納めた書棚や仕事机(作業の都合上三台)、ゲームのためのテレビ受像機、居心地をよくするためのオーディオ機器各種や飲料冷却のための冷蔵庫その他を置いたら、残りスペースは一畳に足らなかった。
 なので万年床はできない。ベッドなんか置きようもない。
 なにしろふとん一式がきちんと敷けないのだ。
 敷きぶとんの両脇は各種什器類に挟まれ端があがった状態で、うなぎの寝床だってもう少し豊かだろうという環境。閉所恐怖症のひとだったら眠るどころではないだろう。俺はたまさか狭い環境がキライではないので問題はなかったが。
 寝るのに問題はなくとも、その他には困った。
 箪笥がない。だから衣類が収納できない。
 部屋に作り付けのクロゼットはあったものの、そこは趣味の品とふとんを置いたらいっぱいになってしまう。然り、仕事場兼だから打ち合わせに誰かが訪れたりもする場所なのだ。なのでごく小さい応接セットも置いてはあった。ふとんを敷くたびに動かさなければならなかったのが面倒だったけどね。
 洗濯機置き場には、マーシャルのでかいアンプを置いた。もともとマーシャルアンプと資料の本の置き場に困って借りた部屋だったんだものな。キッチンは一応あるという程度のもので、まともな料理なんかできようもない。電磁加温プレート一基に流しがついた程度で、ちゃんとした俎板を置く場所もないのだ。
 最初はコーヒーを淹れるためのデカンタ置き場兼湯沸かし器として使っていたが、そのうち自動のコーヒーメーカーを買ったら本格的に用途がなくなった。
 これで生活が営めるわけがない。
 洗濯はコインランドリーでやればいいとか、食事は近所のファミレスとかコンビニの弁当でとかはなるほど手法ではあるが、それ生活っていえるのかって思うのね。料理は自分ちでつくろうよ、洗濯も……という古い考え方のもち主なのでね。
 だから週に一度は実家へ戻り、少なくとも洗濯だけはすることになっていた。

 そういう中途半端な場所だったからだろうか、そこにいる間は、「ここじゃない」、そういう気がいつもしていた。
 当時はまだ若いこともあり、自分自身がこの仕事場のサイズに納まる気はしていなかった。もっとでかい場で、もっとでかいことをやるんだと思っていた。
 その後に仕事はそこそこ膨らみ、六年ほどして引っ越した。
 今度はちょっと大きいぞ。3LDKだ。鉄骨造りマンションの一室。
 六年間に増えた蔵書類を、六畳の一室を書棚で埋めることで収納。ただこれも数年後には溢れて、廊下に本が積まれることになる。一室は作業用で、やはり三台の机を並べ、頻用資料のための書棚三本を据えたらいっぱいになった。LDKは打ち合わせ場所兼食卓ということにして、ここでようやく自前の料理ができるようになった。ちゃんとガス台も炊飯器も買ったしな。今も愛用している北京鍋は、この頃に買っている。残り一室は寝室として、ここには極力ものを置かないようにした。ゲーム用ディスプレイと十台を越えたゲーム機群、箪笥というよりチェストと呼びたい腰の高さの衣類入れがひと棹。ローベッドも置けたので、念願の万年床、眠りたいと思ったらすぐ気分よく眠れる環境の完成だ。
 ところがこの物件、どういうわけかLDKに洗濯機置き場があった。
 ここに洗濯機は置けない。打ち合わせで訪れた編集さんや同業者、近縁業者さんたちに洗濯機を見せつけるというのは、あまりいい趣味とはいえないと思う。キッチンは別に見せてもいいんだけどな。我ながらよくわからない基準。
 というわけでこの部屋へ移っても、相変わらず実家へはけっこう繁く通っていた。
 そしてやはり、「ここじゃない」と思っていた。

 ここで過ごしている間に知り合った相手と結婚することになり、いろいろ事情が整ったため家を買うことになって、4LDKの新築戸建てに移った。
 一室は、連れ合いも似たような傾向があったので本の部屋とした。床下を強化してピアノ二台でも置けるようにし、ここに本棚十数本(ただし棚板一枚につき前後で置くことにした、というよりそうしないと収納できなかったので事実上はその倍の蔵書量)、マーシャルアンプにハモンドオルガンも収納したらいっぱいだ。
 LDKは連れ合いの趣味に合わせさっぱりと仕上げた。ここには連れ合いの意見をもとに俺が設計・制作した間仕切り兼用の棚を置いたりもして、なかなかに居心地のよい環境とできた。
 一室は夫婦の寝室、一室は俺の部屋でもう一室は連れ合いの部屋。俺の部屋はそのまま仕事場となり、しかし今回はさすがに打ち合わせ用スペースは確保できなかったので、最寄り駅のカフェが打ち合わせ場所ということになった。まあそれでも用は足りるさ。
 これは思うに、フリーライターとしてはそこそこ成功した人生展開といえるのではあるまいか。なにしろ、連れ合いと俺の両親の援助も大きかったとはいえ、文字通りに一家を構えちゃったのだからな。
 もちろん洗濯機だってある。これまた連れ合いの発案で、水を節約するため風呂の残り湯(たいがいは冷めているから残り水だが)が使えるタイプを購入。給水のためのパイプの取り扱いが面倒なタイプで、レシピを確立するまでいろいろ問題も起きはしたものの、一旦軌道に乗ればこれがなかなかスグレモノだった。ことにこどもが生まれた頃には、ずいぶん水を無駄にせずにすんだのではないかと思う。なにしろ当初は布おむつを使っていたからね。ただ十か月にもなる頃にはからだの大きさも便の量も増し、すぐ溢れるようになっちゃったから、紙おむつに甘んじることになったんだけどね。

 だがそれでなお「ここじゃない」感は消えなかった。
 そのせいかどうかはわからないが、結局結婚生活は六年ほどで終了し、俺は実家へ出戻ることになる。
 すでに母親は逝去し、父が独り暮らしをしていた。5LDK。部屋は余りまくりだ。俺ひとり出戻っても空間的には何ら問題はない。
 そして戻った実家でしばらくを過ごした頃、またもや俺は感じていた。
「ここじゃない」。

 いったい何処なんだろうと思う。
 どうあれ最初の仕事場を構える前には、そんな感覚を覚えたことはなかった。
 となると昔の実家がその場所だったのだろうか。
 出戻った時には住人が変わっていたし(すでに母は亡く妹も嫁いで永い)、一部は家具の類も変わった。だから戻った実家はかつての実家ではない。
 なら、昔通りの顔ぶれ、昔通りの家具並びだったら「ここだ」となったのだろうか。
 たぶん、ならないのだろう。
 あるいは生まれた時からとっくに「ここじゃない」感はあったのかもしれない。それが実家から出たという事実と絡まって顕在化しただけで、実はもっと昔からそう感じていたのかもしれない。
 だとしたら、「ここ」はどこにあるのだろう。
 気の利いたやつなら「それをつくるのが人生さ」とか言うのだろうな。
 だが俺は気が利かないタチなので、そういう聞いた風なことばには納得しない、できない。だいたいが、それをつくろうといろいろやった末だ。本の部屋がほしいと思っていたし、楽器置き場のある家というのにも憧れた。どっちも達成した。自分で選んだ家族と暮らしたいとも思ったし、それも一応は達成した。
 でもそれらのどれもが「ここ」じゃなかった。
 ここは自分の場所ではない、という漠然とした浮遊感。
 ここで俺は落ち着けないし、俺はここに不可欠の要素でもないという感覚。疎外感ではない。不安があるわけでも不満があるわけでもない。でも「ここじゃない」。
 いったい全体、どういうことだ。

 ずっと外つ国にいる。外つ国に住んでいる。
 そういう表現があるいは、いちばん近いのかもしれない。
 もっとも物理的に外国に住んだ経験はない。旅行には行った。その旅行の時の感覚と、時おり急に大きくなる「ここじゃない」感は近い。そこはおもしろいし、たいがいはいいホテルに泊まったりもしているわけで居心地はなかなかよい。だが「ここじゃない」。
 どこかに自分のいる場所がある気がする。少なくともそれは「ここじゃない」。
 自分の好きなようにハコを仕立てても、かつてなんの問題もなく過ごしていた実家へ戻ってみても、それらは「ここ」ではなかったわけでね。
 いったいどこに「ここ」はあるんだろう。
 というより、「ここ」はそもそもにあるんだろうか。あったのだろうか。
 ずっと漂泊の者、母国をもたず放浪し続ける「民」だったのかもしれない。
 ずっと外つ国に住んでいて、これからも外つ国に住み続ける。
 それが俺のありようというものなのかもしれない。

 とっくに外つ国にいる。
 いつもそう感じながら、なんだか生きている。