2021-06-01から1ヶ月間の記事一覧
考えの盲点を指摘された時に、その人の地金が出る。
必要なのは必要と決めることであって本当に必要かどうかは大した問題ではない。
自分が何者なのかなどということは別に考えなくてもよい。考えなくても自分は自分以外の何者でもないし、考えたところで納得できる解など得られない上、もし納得できたとしてもそれが誰に通じるものでもない。ただ、考えること自体がたのしいと思えるのであ…
甘えちゃっていいんだよ。かわりにいつか誰かを甘えさせればいい。誰も甘えてくれないなんてことはない、必ず誰かが甘えてくれる。もし甘えてもらえないとしたら、それはあなたが甘えないからだ。ひとの世ってのは、そういうもんなんだよ。
信じる者は幸福である。信仰を揶揄する雑音に耳を塞ぐだけで、すべての責任を信じる対象へ預けられる。もちろん信じた責任など知ったこっちゃない。
「生きるために生きる」日々の味気なさ 「死なぬため死なぬ」ことの虚しさ
くだらないことにほど人間が惹きつけられるのは人間が賢い生物である証拠。
愛はむしろ動物的な衝動なので、これを馴致し自在に扱えるということはそれだけ本能の類から離れているということと等しい。それは即ち動物として弱いということであり、そういう人物は人間が構築したシステムの中でなら強いかもしれないが、そのシステムが…
哺乳類で恩を忘れるのは人間だけだ。だから「恩知らず」と罵られたら、自分こそ人間なのだと胸を張ってもいいんだぜ。ああ因みに俺は人間嫌いで通っている、念のため。
今までで最も役に立たなかった助言は『自分を信じろ』です。
誰かの身になって奉仕を主張する暇があったら、自我の出っ張りを内側へ向けておとなしくしていろ。
どんなことにも最初がある。だがそれを最初と認識してもらえるかどうかは運次第。認識してもらえなければそれは既存のなにかと判断され、誕生の瞬間を逃すことになる。
ひとはみな自身を演じる役者であって、技術の巧拙や感覚の優劣、演技の成功不成功の差こそあれ誰もが自身を恣意的につくりあげている。「いやそんなことはない、自分はいつも生(き)のままの自分だ」と言う人があれば、その人はよほどの演技達者か未だ自我…
嘘には二種類がある。当人がそれを嘘と自覚してつく嘘と、当人にまったく嘘の自覚がない、というよりは当人にとってそれは真実以外のなにごとでもないという認識でつかれる嘘だ。
好物を最初に食べるひとと最後に食べるひと、前者はいきなり満足してあとの食事がつまらないし後者はいい加減『空腹調味料』が切れた頃に好物がくるのでインパクトが減少する。要するにどちらも味わえる幸福に大差はないから好きなように食えばよろしい。
幸福は定量制ではないので、誰がどれだけ幸福を味わっても誰かに被害をもたらすものではない。もし被害が生じたとすれば、それは被害をもたらした幸福の主が幸福の定義を根本的に誤っているゆえの事故である。
たのしさの定義はひとにより万別だが、その定義に沿っているか否かの判断をそのひと自身がおこなう点は万人に共通だ。つまりたのしさは誰かから与えられるものではないということだ。もしたのしさを知らない人がいるとすれば、それは自身で定め自身で判断す…
『細かいことにこだわるな』と言い、実際に細かいことを素っ飛ばしてしまう人は、人生の最もたのしい部分をほぼすべて逃している。
ひとには向き不向きというものがあるのだから、あらゆるものごとをこなそうなどとは思わないことだ。もっとも下手の横好きというのもあって、できるか否かによらずこなそうとすること自体がたのしい場合もある。重要なのは自身がそれを理解しておくこと、自…
「それ意味あるの?」と尋ねる者には困惑以外の感情を抱き得ない。人間は無意味なことができない生物であり、その行動には必ず意味がある。ただしその意味は万人に理解できるものとは限らず、当人さえ理解できない、どころか認識していない場合もある。それ…
大切なことばかり考えていると、そのうちにそれがなぜ大切なのかわからなくなる。大切ではないことばかり考えていると、そのうちに大切さ自体がわからなくなる。
『過ぎる』というのは同一線上でオーバーランすることなんだから、その事例に『過ぎたるは及ばざるが如し』っていうのは間違ってるなあ。だってぜんぜん違うことなんだからね。異なる線上のことでは過ぎるもへったくれもないよ。
なんにでも理由を求めたがることはしばしば当人も周囲も不幸にするが、その不幸などまったく理由を求めないことがもたらすものに比べれば大したものではない。
真面目な話ができないやつってのはずいぶん困ったもんだが、真面目な話しかできないやつってのもそこそこ困ったもんだねえ。
解答が得られるか否かは運次第。重要なのは解答を求めることであって『なぜ』へ至った時点でそのひとは最も大きな収穫をすでに得ている。
話が通じないことに苛立っているわけではなく、通じない相手に苛立っているわけでもない。通じさせ得ることばをもち合わせない自分に苛立っているんだ。
世の中に当たり前はないのが当たり前。
誰かの作品を真似るのは悪いことだと思っているうちはまともな作品はものせない。誰かの作品を真似ることに躊躇いがなくなったらまともな創作はおこなえない。
やらかしてから言い訳を考え始めるうちはまだこどもだ。おとなは言い訳を準備してから行動する。どっちがマシか、って? まあそれは考えないのがおとなってものさ。
豊穣とはみのりゆたかな結果をのみいうものではない。得られなかったみのりを慈しみ愛でるこころもまた豊穣なのである。