2022-11-01から1ヶ月間の記事一覧
精神は純粋に形而上的なものではない。それは形而下のものである肉体に宿っているからというだけのことではなく、肉体で実現不可能なことの多くは精神という環境の下でも実現できないということで、つまりなにものにも縛られない精神性というものはよほど稀…
何も思いつかないというのは概して本当に何も頭に浮かばないのではなく頭に浮かんだ何かに認可の決定を下せないという状態であり、それはつまり決定を下す自分自身に対する不信が募っている時である。
幸せでありたいと願うことの罪深さを知る者だけが幸せを願える。
難しく考える必要は特段ないが、それは考えなくともよいという意味ではない。
自分の中のひとつを肯定するために自分の中の別の何かを否定することは、自分の中にある肯定のための根拠も否定のためのそれも揺るがし自分の判断そのものへの不信を招くことになり、信の再構築はほとんど不可能となる。もし再構築が成ったとしても、それは…
情報は判断の材料として必要なのであって判断そのものとして求めるものではない。
装いは自身のためにこそ必要なものであり自身への装いを失った人間は獣に等しい。
人間の精神は根本的に肉体なしでは存在し得ないものであるから、肉体の感覚を喪失した精神には必ず歪みが生じる。それを忘れること自体がすでに歪みの所産である。
まだ世界が狭いのか、逞しさに触れてからだが反応する女性には多数遭遇したが優しさに触れてからだが反応する女性には遭遇したことはない。一方イイ乳やイイ尻には凡その男性がからだで反応するが、いい気っ風にからだで反応する男性にも遭遇していない。
身を助けてくれる芸を身につけるには相応の投資が必要であり、その投資は概して芸に助けられる額を大幅に上回る。
ひとの行動を律するのは善悪や倫理の類ではなく居心地のよさであるから何を以て居心地よしとするかを操るのが即ち教育というものの本質である。
ひとが倖せになるのに資格や条件は問われない。一方で不倖になるには条件があって、それは倖せを知っているということだ。従って不倖が嫌なら先ず倖せを得なければよい。
力を誇り恃む者はいずれ力に復讐されるという。なら知力や学力、胆力、気力といった類もまたいずれそれらに復讐されるのだろう。つまり誇り恃んだ時すべては終わるという仕組みだ。となると生存はどう実現されればよいものなのかねえ。困ったものだ。
まだ間に合うはもう沢東。
ひとの感情は肉体の維持に必要な栄養素に似て、たとえば喜怒哀楽の喜は糖に近い。活動のための燃料となり常に消費されていて、頻繁な摂取を必要とする。ある程度は備蓄することも可能だが、基本的には当座の必要量を当座に摂取し続けなければ衰えて活動不能…
人間にとって「あえる」は必要だ。ひとにあえること、かたりあえること、それらは人間が孤立していないことの証であり、動き続けていることの証でもある。「あえる」を放棄した時そのものは人間ではない何かになっていて、そのものに戻る道はない。
愛情はからだから発してこころで育まれる。どちらが不全でもそれはいびつなものになる。ゆえにひとの愛情は常にいびつなものにしかならない。
勝ち逃げなんて簡単さ、勝ってすぐにくたばりゃいいのだ。ぜひ試してくれたまえよ。
名言とか至言と評されることばの背景には必ず尋常ならざる失敗や不遇があり名言至言はそれらの標題や見出しに過ぎない。
ひとを見る目がない者にいちばん見えていないのはその者自身の姿だ。
「おまえにできてオレにできないわけがない」ってのは相手に対してより自分に対して失礼だな。自分が他者をモノサシにしないと計れないものだと決めているんだから。他者に依存せず自立する自分というものはありませんと言っているようなもんだ。
今この瞬間にも俺は誰かの不幸を願っているし、おそらく誰かが俺の不幸を願っているんだろう。一方誰かの幸せを願うのは、そのひとを思い出した時だけだ。世の中はおよそそういうバランスで成立しているんだよ、残念なことにね。
いずれすべてが独り相撲だったことに気づくさ。周囲のすべてのひとびとと通じていなかったということにね。その時に納得できる程度に自身への信を保てているかが課題だ。
縁が切れたからといって訃報すら入らないような音信不通にはなってほしくないなあ。だって死んだことすらわからないんじゃ、祝杯もあげられないじゃあないか。
難しいのは自分の意見を押し通すことよりも自分を信じることだ。ほかの意見を退けるだけの価値がある意見を自分が主張していると信じることだし、主張する自分自身がそれに見合った者だと信じることだ。その意見や人物が他者から観ればごく空疎なものでも、…
誰に骨を拾ってほしいとも思わない。拾う立場を何度もやってきたし、それがどれだけきついことかは知っている。それを誰かに強いたくはない。特に、拾う気になってくれる誰かには。
引き返す道は常にない。
今夜なにが起きるかすら誰にもわからないのになぜ誰もが明日の約束をするのかというと、明日のことを考えないと今夜なにが起きるか恐くて眠れなくなるからなんだぜ。
ひとりでおこなうのはよくない。ひとはひとりでは成立しないようできているからだ。
愚かさだって一日や二日で身につくもんじゃない。延々と積み重ねてきた時間の総和が身にしみついて愚かさになる。その愚行はつまり、何十年がかりの結論なんだよ。