かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

2012-08-01から1ヶ月間の記事一覧

#355

狙って当てるのはベストだが、狙っていないのに当たるのもよしとする。狙ったのに外れるのにはなかなか味わい深いものがある。狙っていないので当たらないのは当然だ。いずれにせよ撃てばそれなりの結果があり、周囲に必ず何らかの影響を及ぼす。話にも何も…

#354

貧しかろうが病んでいようが、“今”を肯ずることのできる者こそが成功者であり、勝者である。もっとも、肯ずることと満足し納得することは必ずしも同じではない。肯じつつ better や more を求める者にはさらに幸福者の称号が与えられよう。(−12)

#353

この齢になって初めて、“死んでいっそう疎まれる人間”というものが実在することを知った。というわけで、これまでは死んで喜ばれる人間にだけはなりたくないと願っていたのを撤回、死んでいっそう疎まれる人間にだけはなりたくないと願うことにした。(−13)

#352

小学生に“将来の夢”を訊ねるのって、馬鹿馬鹿しいことだとは思わないか。彼らは本来、将来よりも明日の遊び場の確保を考えるべき存在なんだぜ。彼らにとっては、たった今だって夢みたいなもの、であるべきなんだよ。だいたい“将来の夢”ってのは、“今はできな…

#351

よく研がれた包丁でも森の立ち木を伐り倒すことはできないし、同様に如何に丁寧に目を立てた鋸でも林檎の皮を剥くことはできない。よい仕事をして遺し、あわよくば人口に膾炙する名も挙げたいと思うなら、使う道具の性格を知りそれを使うべき場を吟味するこ…

#350

アーティストなんて呼ばれ方は死んでもイヤだがアーティザンと呼んでもらえるなら死んでもいい。(−16)

#349

今日は凪だった。昨日も凪だった。一昨日もその前も凪だった。明日は明日の風が吹く、だって? そりゃまた贅沢なこったねえ。こちとらもう長いこと無風で海の真ん中を漂ってる。明日の風どころか、いったい風がどんなもんだったかさえ、もうわからなくなりか…

#348

あらゆる作品は常に傑作である。しかし作品に対する周囲の理解は大変にしばしば及ばないため、多くの作品には駄作凡作の烙印が押されている。もっとも、周囲の理解が及ばないということは、本当にただ理解が及ばないというだけのことだ。もしそれが、あまり…

#347

心から欲しているのであれば、いずれの時にかそれを得ることができるだろう。だがひとはしばしば、心から欲しても得ることを望まず、永遠に欲し続けることを選ぶ。ひとというものはそもそもそういう性質を備えたものだ。(−19)

#346

身についた知識の総量がある線を越えたひとは、知識の量と感受性の豊かさがほぼ比例している。そもそも膨大な知識を自身のものとして管理維持するには、知識に対する相応以上の思い入れが必要であり、そしてその思い入れはほぼ例外なく感受性に由来するもの…

#345

英雄の称号を得ることより、得たその称号を穢さずに余生を全うすることの方が、ぞっとするほど難しい。

#344

ひととひとの繋がりは単純な損得勘定で成立しているわけではない。むしろ功利で捉えたら余分あるいは不足な部分にこそ重要な要素がある。もし単純な損得勘定でばかりひととひとの繋がりを量る者があるなら、その者はひととして生まれた醍醐味を堪能していな…

#343

もしその肉じゃがにもうひと味が足らないと思うなら、ネギを確かめることだ。玉ネギと長ネギ、両方とも入っているか? 肉じゃがの味を整えたいなら、ネギは必ず二種類を入れるべきだ。そして、玉ネギは必ず空炒りしてから、長ネギは焦げ目がつくまで焼いてか…

#342

失敗した時、まず自分の保身から始める者には大きな仕事を任せることは到底できない。だが、自分の保身を最後に回す者には大きな仕事を遂行する能力はない。いずれにせよ失敗した時にその者の正体は割れるが、一番望ましいのは、失敗しない者を探し出して任…

#341

別に死を恐れているわけじゃない。ただ面倒なだけなんだ。

#340

ひとに喜ばれるプレゼントを送るコツは、なにを送るかとか、いつ、どのように送るかといった点に工夫を凝らすことではない。自分を、喜ばせたいひとにとって歓迎したい人物にすることだ。だから、プレゼントでひとの気を惹こうという策は、まず成就しない。…

#339

「はっとした」という表現の多用はいかにもバカっぽい。それは、 1)常套句に頼りすぎていて、表現に対する積極性が感じられない。 2)「はっとする」=発見であり、発見が多いということは基本的に無知。 3)ほとんどの場合において、「はっとした」理由…

#338

場に応じて誰かが誰かに対して発する叱咤や指導のことばは、概してそれを発した者自身が同様の場に遭遇した時に採りがちな思考や行動に対して発せられている。すなわち、発した者自身が甘えを抱くような状況では他者に対して「甘えるな」と、また発した者自…

#337

この世に正解はない。だから間違いもない。あるのは“かもしれない”だけだ。正解かもしれない、間違いかもしれない――あるのは永遠にそれだけだ。あとは自分が自分の得た結論を、どれだけ信じられるかの問題だ。

#336

可能性を見出すのは賢者、可能性に挑むのは勇者、可能性の存在自体に気づかないのが愚者、結末までのすべてを予め知っていながらなにもしないのが庶民である。

#335

あらゆることに訓練は必要であり、また正式な訓練を受けた者がまったくの素人に完全に劣ることはない。「天才は違う」と言う者は、才能と技術のどちらかあるいは双方を理解していないのだ。もっとも、目的の成就と訓練の有無とはしばしば無関係だ。つまり訓…

#334

「タダより高価いもんはない、いいますやろ」「いいますなあ」「でもインフレちゅうもんが進んだら、それよか高価いもんが出てきとるん違いますやろか」「んなアホな。そもそもタダより高価いちゅうのはたとえ話で、要はひとさまの世話になるとあとでよほど…

#333

失ってみないと価値がわからないものは、実はそう大したものでもない場合が多い。失って再び得られないという事態がそのものの価値に上乗せされているから、大したものに感じられるだけだ。一方、本当に価値があるものには普段から注意を払っているから、む…

#332

自分が責められていると感じるのは、自分に後ろめたさがあるからだ。後ろめたさがあるということは、まず自分自身が自分を責めているということだ。自分に責められなければならない自分がある限り、周囲に対してどれほど自身の正当性を主張しても、自分が責…

#331

たとえば「月と鼈」という諺が嫌いだ。これが単に、「一見はどちらも丸いが、全然違うものである」というだけの意味であれば構わないのだが、通常はそこに価値の差を見出し、良いもの=月、大したことのないもの=鼈、という格差を付与している。月は月、鼈…

#330

たとえば「運動は苦手だが、計算は得意だ」といった言い回しが嫌いだ。なんの関係もない「運動」と「計算」が、「だが」で強引に繋げられているように見えるところが嫌いだ。もちろんこの構文は本来「苦手←→得意」という関係性から生じたものであって、「運…

#329

こどもの発言を無条件に評価し、「いやあこどもの感覚には本当にかなわない。こどもって素晴らしいねえ、学ばせてくれる、気づかせてくれる」とか言ってるそこのキミ。それはこどもが素晴らしいわけじゃない。キミがつまらないものであるだけだ。

#328

巨大化したシステムに対して個は無力である。だが同時に、いかに巨大なシステムも覚悟を決めた個を制御することはできない。かくてシステムと個は、常に微妙なバランス――それは主に個の側の自制によってもたらされるものだが――を保って共存している。

#327

状況や可能性を理解した上で、成就し難いことを敢えてするのが無茶。理解せずに可能性のないことをするのが無理。だから無茶は時に見ていておもしろかったりもするが、無理にはなんのカタルシスも生じない。不快なだけだ。

#326

理解不能な事態には、理解不能となるべき幾つかの事情がある。代表的なひとつは、その事態の全体像を理解すべき者が、それを理解するだけの能力を備えていないことだろう。同様に代表的なひとつといえるのが、理解する必要もないところで事態が出来したとい…