2020-07-01から1ヶ月間の記事一覧
自分がいきものだってことを忘れたやつと話をする気はない。どこぞで二、三発ばかり殴られて来るといい。それで痛みってやつを思い出せたなら、その時に相手してやる。
他者とやりとりする時に重要なのは、相手の身になって考えることでも、相手のためを思うことでもない。ただ自分であること、それだけだ。ただしそれは、単に恣をおこなえばよいというものではない。自身の則に従い自身が果たすべきと思うことをする。それが…
考えることの放棄は当人の自由だし別段誰が困るものでもないが、それを実行した時から考える者たちとは無限ともいえる距離が生じることを知っておいた方がよい。
なにかを否定することは、大概まず自分自身の中にその要素があって、それを他者へ投影し否定することで婉曲的に自身を否定あるいは罰することだ。つまり自身が認定した自身の罪を他者に償わせようという試みなのである。しかしそれで自身が罪と認める状態か…
借り物のことばで己を語ることは赦されるが、借り物のことばで余人を責めることは赦されない。
幸福にはおよそ二種類があり、ひとつは最大値で認識されるもの、もうひとつは総和で認識されるものになる。厄介なのは、どちらか片方しか認識できなかったひとには自身が得た方の価値が割り引いて認識されることで、その結果自身が幸福から縁遠かったように…
肯定は否定に頼らず成立させ得るが、否定は肯定の反としてしか成立しない以上、どこまでいっても否定は従属的な概念とせざるを得ない。
触れることを忘れた辺りから人間はどうにかなり始めるもんだ。
人間といういきものにもし正当性があるとするなら、それは解を希求する特質にのみ集約されるのかもしれない。
なに面倒なことは後回しでかまわんよ、なんなら未決へ差し戻しでもよい。こっちもキミに同じ扱いをするだけだからね。これは私に限ったことじゃない、みんなそうする。つまりキミの未決事項には、誰も手を貸してはくれないってことさ。
たいがいの愛情は遅効性で、時には効果が顕れるまでに数十年の時間が必要になる場合もある。特に高齢者からもたらされるものには、そのひとの年齢へ至るまで愛情と気づけない類もある。慌てて結論を求めることは、あまりお勧めできない。
夢を見る権利は誰にだってあるのさ。夢を実現するっていうのなら話はまた別だがね。
ひとに死ぬ理由はない。生きていられない理由があるだけだ。
世の中に無駄なことはひとつもないといわれたら多分そうだろうと思うし、世の中は無駄だらけだといわれればそれもそうなのだろうと思う。そういう揺らぎをもつことのできる世の中が、豊かな世の中なのだと思う。
ひとはできる限りいつも誰かといっしょにいた方がよい。なぜならひとは、ひとりでいることには容易に慣れてしまうが、誰かといることにはなかなか慣れないからだし、そしてひとは結局のところひとりきりでは在り続けられないものだからだ。
それがなぜ大切なのかを考えるより、それをもっと大切にした方がよいと思うよ。
名馬も走らにゃ駄馬に劣る。
駄馬はどこまでいっても駄馬で名馬になれるものではないが、どこまでもゆくかゆかないかの差は確かにあって、どこまでもゆこうとする駄馬はたとえ途中で力尽き倒れても、その場に佇み続けた駄馬とは違うものを遺し得るだろう。
勝ち負けでしかものごとを測れない人は死んでも救われないもんなんだよ。
誰かの不幸にメシウマを感じるひとには必ずそのひとの不幸にメシウマを感じる誰かがいる。もちろん誰かの不幸にメシウマを感じないひとにも大概そのひとの不幸にメシウマを感じる誰かが物理的には存在するのだが、誰かの不幸にメシウマを覚える感性が備わっ…
世界を操ろうとするのはやめたんだ。どうやら世界にも俺並みには個性があるようだからね。同等の個性を操ろうとするのは不遜というものだろう、俺にだってそれくらいのことはわかるさ。
勉強や学歴が役に立たないと公言して憚らない者の多くには、本気で勉強した経験も学歴もない。だが勉強をし学歴も得た者は、とりたててそういう発言を排除しない。勉強や学歴の価値を知る者に、それらはとるに足らない、論じる意義もないものだからだ。
三次元のものについては表があれば必ず裏もあるわけで、まったく裏のないなにかを期待する者があるとしたら、その発想はそもそも三次元のものではないことになる。つまり掛け値なしに次元が違うわけだ。さてキミの発想は何次元だろうね?
裁きはひとつの力だから、当然のこととして反作用がある。裁いた者には、与えた罰と同等の何かがもたらされるわけだ。もし裁いた者がその何かを感じなかったとしたら、それは裁きじゃなかったことになる。ほとんどの場合それは裁かれるべき何かだ。
キミが違うと言うからには、確かに違うんだろう。キミの世界では。
それが創作物であるか否かは、そこに制作者の切実が宿っているか否かで見る。たとえそれが誰かの何かの模倣だったとしても、それをつくらなければ制作者が形而上的に滅びるという切実があるものはすべて創作だし、それでなくともよいというなら創作物とは呼…
その昔、新しいワインは新しい革袋にと言った賢人がいたそうだが、まさかそのひとも空っぽの革袋が量産され空っぽのまま広まって誰も中身を気にせずにありがたがる時代が訪れるとは思っていなかっただろうねえ。
言い訳も正当化も好きなように好きなだけすればよい。だが憶えておいてほしい、それが信じられた時の君は相手より下位にある。非を認め謝罪した者は時として相手より優位に立つこともあるが、言い訳と正当化のあとは必ず下位になるんだ。
自分の顔を肉眼で見たことのあるやつだけが誰かの夢を叩け。
人間の分際で完璧なんぞ目指すと呪われちゃうからやめておけ。