今日の戯れ言
取り柄のなさを嘆く者に幸いあれ。その者は少なくとも、自身に取り柄があると自負する者よりひとつだけ事実に対して真摯である。
ひとりでできることなんかひとつもない。周りのひとからできるようにしてもらっているだけだ。世の中の全員がそうなんだ。つまりひとりひとりがほかの誰かの「できる」を分担している。そして、でも、ひとりでできることなんかひとつもない。
やることがないはずなのに、やりたいことがある。やることがあるはずなのに、やる気がない。やることがわからないはずなのに、なにかしらやっている。
矛盾の発生には規準が必要なんだよ。だから規準をもたない人の中に矛盾は生じない。だから周囲がどんなに矛盾を指摘しても改まらないし、なんなら当人においては理解すら及ばないのさ。
手間は結果のためにかけるものではなく作業者の納得のためにかけられるものであり、だからこそ価値が生じるものになる。
力は消費されるから力として存在し得る。温存されるだけの力は力と見做されない。
にせもののアイデンティティはオリジナルに迫ること自体にあって、それへの尽力にはオリジナルが備えるべくもない意欲とエナジーが費やされている。当然その尽力はオリジナルが備え得ないものであり、従ってにせものがオリジナルへ迫る能力が高ければ高いほ…
それを未だ知らない者と知り過ぎた者による言及には耳を貸さないことだ。
死をおそれないことと死を理解していないことは表面上たいして区別がつかない。
成果が常人には評価され得ないという点において天才と狂人は紙一重どころか同一だ。
アイディアが却下されるのはそのアイディアがふつうにつまらないかよほど優れているかのどちらかの事情による。採用されるのは異様につまらないか程よく優れたものだ。
おぅ知ってるか?「ぶいぶいいわせる」ってドイツでは「ふぁうふぁういわせる」っていうんだぜ(嘘
継続が力になり得るのは、継続による結果が常に更新されるからで、継続される作業自体が力になるわけではない。つまり結果が更新されない継続は力たり得ない。
死に際に「朝聞道夕死可矣」って言えるの凄いよな。俺もう面倒だよどうでもいいよ。
ひとりでは立ち向かえないから仲間を集めて挑む。旗標はセイギやユウジョウだったりキズナだったりとなかなか美しいが、正味のところは寄ってたかってボコる、だろう? 見苦しいね。
強さを売る勇者が強さを誇示するには一旦その強さが否定されなければならないという圧倒的な面倒くささ。
必然性のないデザインはゴミか神のどちらかになる。もちろん前者が圧倒的多数だ。
知りたいのは「その向こう」じゃなく「ここの今」なんだが。
ねぇ、この手も借りたい?
滅ぼした数を勲章にできるものだけが生き残るのがこの界隈の習わしさ。
愛されていないんじゃない、向けられる愛を認めたくないだけだ。そうだろ?
世界のために自分を変えられるというのはなかなか稀な才能だ。
ひとの肌に触れない期間が長くなればなるほどひとは貧しくなる。
愚者の世界は狭く賢者の世界には実体がない。
文字を好むのと文字で記された内容を受け取れるというのはまた別の話。
人間に愛せる自分以外のものはせいぜい目に映るものが関の山だよ。概念は愛せない。概念への愛というものは、その概念を好む自分への愛なんだ。
目を向けた方向へ進むことが前進だとは限らない。
適材は適所へ配置すればよいが、それ以外はどうすればよい?
仕上がりを気にするようになれればどうにか半人前だな。
学べば変わる。変わらないのは学んでいない証。