2021-05-01から1ヶ月間の記事一覧
心配性のひとは心配したくて心配してるんだから心配したいだけ心配させてあげるのがオトナの嗜みってものだよ。
人間は通常すべてを相対的にしか認識できないので、「大丈夫、いける!」と思った時には必ず『大丈夫ではないし、いけもしない』という認識がある。というより、大丈夫ではなくいけもしないという想定があるからこそ「大丈夫、いける!」という発想も出るの…
救われる時は救われる、救われない時は救われない。たったそれだけの、まるで当然のことが、世界をぐるんぐるん回している。
妙に硬直した考え方をして頑なにひとつの態度を貫く者よりも、better を見つけたら早々に鞍替えする変節漢の方が、おそらく人間としてより賢いし器も大きい場合が多い。
ひとのふり見て我がふり誇れ。
すべての逸話の類は共通してひとつのことを教えてくれる。即ち、後日にそれを語ってくれる友をもて、ということだ。
かつては理解が必要だと考えていた。今はそれはおおいなる誤りであり、また不可能なことだと理解した。
駄洒落を連発できることは才能のひとつに数えてよい。ただしそれらの駄洒落に重複がない場合のみだが。
ものごとのおもしろみは表層と核にあることが多い。途中にはたいがいかったるい層が分厚く埋まっていて、そこを突破するのがけっこう難しい。
結局のところ鈍いやつが一番強いのよ。
広範な知識を蓄えずとも洞察力に秀でずとも、ましてものごとの真理に通じずともひとは賢者足り得る。愛でること愛でられることの稀有、それゆえの懊悩と煩悶を理解し赦すことができるなら、その者は賢者と呼ばれるに相応しい。
人間はひとりで生きてゆけるようにはできていない。それは単にそばに誰かがいなければならないというだけのことでない。営々と積み重ねられてきた歴史、その過程で生み出されてきたさまざまな技術と知識にも人間はまた依存している。人間の一個体はそれら過…
たのしい老後を送れるのはたのしい前半生を生きたひとだけだ。ただし、たのしい前半生とは必ずしも一般的尺度で計ったものではない。余人には酷い逆境に思えても、当人がおもしろがっていればそれはたのしい日々なのだ。一方、ほかからは順風満帆に見えても…
年老いたことが言い訳にならないなら、年若いことも言い訳にならないはずだ。同様に年若いことは罵倒の理由にはならないし、年老いたことも罵倒の理由にはならない。
つくるひとにとって駄作に触れることは必要不可欠な学びになる。一方、つくらないひとにとって駄作は文字通りの無駄に過ぎない。その辺りの熱量の違いを、つくるひと・つくらないひと双方が互いに理解しておかないと、不毛なやりとりが量産される。
悔しくて泣けるのはその件について確かなビジョンをもっているからで、漠然とした輪郭しか見えていなかったら涙など出てこないし当然ながら成就も覚束ない。つまり泣く者の方がよほど強い意欲をもっているのだ。
ほんのきまぐれに「うさんくさいってどんな犀だ」と言ったら、即座に「アフリカのウサン自治区に見られるという幻の犀で、体格が小さく、現地の者でもほとんど見たことがないという。専門家の探索でも見つからず、仔犀を見間違えたか、あるいは観光客誘致の…
誰にだって若かった頃というものがある。16歳の少年にも、だ。……それは『幼い』というんじゃないか、って? 幼さというのは客観の産物だよ。たとえば50歳のおっさんから見れば30代のやり手ビジネスマンの挙動が幼く見えることもあるだろう。若さは違う。その…
愛情が計測できないのは適用すべき単位がないからだ。
「駄目なものは駄目なんだ」って、駄目なやつでもそれくらい言えるぞ。
できない理由を探すという作業はそこそこに知力も体力も必要なものだから、それができるということはそれなりの力量のもち主だということだ。その力量を活かす方向性を考えるのが、そのひとを管理する者の最も重要な仕事となる。ほらそこ、「そんなのめんど…
何事につけ『自称』は穏やかでよい。自分でそう発言しているだけなら、それが正しかろうが正しくなかろうが発言者当人だけの問題で済むからだ。これが当人以外の誰かによる評価や認定となると、ことは拡大し当人には手に負えない問題になる。そしてそれはし…
狙い通りにコトが運んでうれしいうちはまだ青い。
発表しない結末のない物語をもつのは大切なことだ。その物語を温めている間、その物語とともに生きることができる。
やりおおせた人生なんておもしろくないんじゃないかな。
現実を見ろとは仰るが、あんたの見ているらしい現実とかいうものがあんたの夢想やら幻想の類に過ぎないってことは考えたことがないのかね?
肌のぬくもりの記憶が消えないように、冷たくなってゆく肌の記憶もまた消えない。
やりたいことをやりたいようにやるのが自由というものなら、やりたいことを敢えてやらないという“やり方”もあってよいし、やりたくないことをやることも自由の一種に勘定できる。重要なのはやるやらないの話ではなく、それを選べるかどうかなのだから。
考え方にはルールがある。それを理解できず「ひとそれぞれ」と括ってしまう者には、誰かが考えた末の結論もまた十全に理解することができない。
素直になるということは自分の虚栄心や自制心と戦うということだから、素直になれるかなれないかは環境や状況のせいではなくあくまでも自身の内部の事情に因る。当然、自分以外の誰かに素直を要求するのは激しい内政干渉の類であり、図々しいとか傲慢とかの…