2021-01-01から1ヶ月間の記事一覧
互いが互いを好きである関係よりも、互いが互いを好きであることを赦しあえる関係の方が長続きするものだし、みのりも多くなるものだよ。
十代半ばを過ぎたら人間はそうそう変わらない、変われない。だから救われているんだってことに気づけよなあ、そろそろ。
しかし、だ。やらないこと、できないことの言い訳を考えたり述べたりする者は、少なくともそれをやらなければならないことは理解しているわけだよ。それはそれで、評価をしてもいいことではないかと思うんだ。
まあ考えてみれば誰かの役に立っているかどうかが判らなくとも確実に誰かの世話にはなっているわけで、それだけでもひとの世の中には価値があるんだろうねえ。
なにもしていないのを悔いたり恥じたりすることは、なにかをしているつもりになって満足したり誇ったりするよりずっと真っ当なことだ。
眠い時に眠るのは個人の自由とか権利とかではなく、義務だ。その睡眠不足がのちの周囲に撒き散らす害を考えれば、眠ってもらわないことには皆が困る。
経験の素晴らしい点は、それを積むことで創意や才に恵まれない者でもひととおりの作業がこなせるようになるところだ。だから自分が創意や才に恵まれていないと思ったのなら、とにかく経験を積むとよい。もし実際には才に恵まれていたなら、経験は同等の才に…
『なぜ?』は「知りたい」の別の言い方だから、『なぜ?』がなくなるってことは「知りたい」もなくなってるってことなんだ。つまり世界への興味を失った者が、『なぜ?』を言わなくなるんだよ。
過去のできたことを並べて誇る者より、まだできていないことを数えて「ということはまだ伸び代があるってことだね」と未来を誇る者の方が好きだな。
感謝なんて簡単じゃないか。自分がそれをできないということを自覚するだけで、世の中のほぼすべてのひとに対してできるようになる。
気に入らないものを気に入らないと言うことは誰に邪魔される筋合いの話でもないが、それがキミという人間を測るモノサシにされていることは知っておいた方がよいね。
願いは叶うもんさ。叶ったことがないのなら、それはまだ叶うべき時が来ていないか、それとも実はちゃんと願っていないか、どっちかだろうな。
企画倒れは企画あってのものだから、企画できない者には経験できないことなんだよ。
電池で動くものが電池が尽きれば動かなくなるように、ひとのこころだって動力源がなくなれば動かなくなっちまうんだよ。磨り減ったとか感度が落ちたとかの話じゃあない、こころを動かすエネルギーの問題なんだ。
くだらんことだからこそ本気で挑むのが人間の最も人間らしいところじゃないのかね。
素晴らしい創作物の作者が必ずよい人間であるとは限らないが、少なくとも価値ある人間であることは間違いない。
ネイティブの凄さってものを見くびっちゃあいけない。『当たり前』のレベルが違うんだ。そのレベルからの積み上げの高さは、到底追いつけるもんじゃあない。
まあだいたいにおいて人間のやらかすことである以上、タカは知れてるってもんだよ。その枠をハミ出るのは、人間じゃあないやつらだってことだ。
人の世に『まさか』はない。人の世は人が組み立て人が運用しているものである以上、そこで生じた事態すべてに人の思惑が影響しており、『まさか』と思われる事態にもどこかに必ずそれを必然として導く事情が存在する。もし『まさか』が生じたなら、その背後…
「たのしくないことがなければ、たのしいことがわからない」というのは嘘だ。こどもを見ていれば、たのしいこととの遭遇に反の必要がないことがよくわかる。おとなになると違ってくるというのは、おとなになったためではなく当人の感覚が鈍麻したためであり…
満足と納得の差異は、前者が自ずからわきあがるものであり後者は吟味を経て訪れるものであるという部分に集約され得るが、それが当人にとって不足のない結果であるなら、両者に強いて優劣をつける必要はない。つまりそれに対しての、当人内部の異なる視座も…
求めぬ者には開かれぬ。
過去を誇る者も過去を恥じる者も過去から逃れていない点では同じようなものだ。とはいえ過去からまったく逃れることは現在の否定に等しいのだから、過去から逃れていない者は過去をもたない者より幾分かはマシだ。
素直になろうと努力することは、素直なのか素直でないのか。
誰にでもそのひと固有の時間の流れがあるが、それに気づいているひとはごく少ない。
得たものを正当な用法で使うことによって満足を得るか。得たこと自体や正しいとはいい難い用法で使って満足を得るか。その差があるいは常人とオタクの差かもしれない。
そもそも尻馬に乗るやつがいないければ、ブームなんてものはおきないのだ。その点において尻馬に乗るやつには、それなりの評価をしてやってもよいだろう。もちろん、その点においてのみだが。
少なくとも感受性において、こどもがこどもゆえにおとな(とされる人々、以下同)に勝るものを備えているということはない。同様に、おとながおとなゆえにこどもに勝る部分もない。もしこどもに『秀でた発言』があったのなら、それはその発言を秀でたものと…
危機や困難も基礎となる知識がなければ知り得ないことさえ知らない者によって今日もまた無謀な試みは繰り返される。
愚者の最も愚かなところは他者の智に敬意を払わないところだ。尤も、他者の智に気づいたとしてもその価値を測るものをもたないからこそ愚者なのであり、そして測らねば敬意をもてないからこそ愚者なのでもあるから、それは当然といえば当然のことなのだが。