昨日の戯れ言
知にはたらけば角が立つ。情に竿させば流される。欲に従えば目が濁る。とかく人間はやりづらい。
最近の政治家は堕落したもので、誰もが二枚舌になってしまっている。昔はそんなことはなかった。政治家といえば四枚や五枚、或いはふた桁の舌を巧みに使い分けては成果をあげていたものだよ。ところが今は二枚しかないんだ。だからひとつの舌が千切れるとそ…
そいつは悪魔よりタチが悪いヤツだぜ、なにしろ人間なんだからな。
もし自分が人類最後の couple の片方だった場合、partner 次第では人類を滅ぼす覚悟が俺にはある。だからどうだってことは別にないんだがね。
生への執着はひとの生存の理由にはできない。
「それでも記憶していてもらえるのはうれしい」なんてのは、忘れられない者の苦しみを知らない者の傲慢というものだよ。
もういいかい? もうイイよ(拒絶)
見つけてほしかったんじゃない、探してほしかったんだ。
願わくば死して名など残らぬことを。終わりは一度だけでいい。
面倒を厭わないのはよいことでもなんでもないぞ。世の中をよくするのは面倒を見つけてはその減らし方を考えるひとで、面倒を厭わない者はむしろ世の中のお荷物だ。
明日が見えないことより今ぜんぜん楽しくないことの方が恐ろしい。
ひとの存在は物理的な有無によってではなく記憶という形而上的な認識の有無によって実現している。従って物理的に消滅しても周囲に記憶が残ればそれは存在し続けているといえるし、逆もまた然りである。
むしろ私には、目に見えたから手で触れられたからという理由でそれが確かなことだと信じられる君の方が、よほどの夢想家に思えるねえ。
締め切りはひとの行動を律し加速する。だから人生という締め切りのない work はしばしば緊張感を失うし、結果的にたいした結果を得られないものになったりもする。
個人責任の範囲が広い社会は社会としてすでに危篤状態にある。
再建は、整ったなにかを望む者だけがなし得るゼロからの建設よりも困難な大事業だ。その望みをもたない者には、再建はもちろ建設だってできやしない。
存在の否定は紛れもなく存在しているゆえにこそ現れる対応なので、存在の否定は即ち現在確かに存在しているという証である。
世界に「自分のもの」なんかひとつもないんだよ。借りてるか、当面預かっているだけなんだ。自分自身のいのちも含めてね。
レベルの異なる者たちは本来話が噛み合わないが、かつては通じないわけがないという根拠のない信念を互いに抱いていたため奇跡的にもやりとりが成立していた。今は違う。レベルの差異の存在を、主に高い側の者が知ってしまった。そのため異なるレベルの者を…
原因に『何故』はあっても結果に『何故』はないのが事故、結果に『何故』があっても原因に『何故』がないのは事件。さてキミのトラブルはどっちかな?
勝ち負けでしかものごとを測れない人は死んでも救われないもんなんだよ。
疲れを溜め込むのはよくないが、だからといって疲れないように振る舞うのも考えものだ。残念なことに人間は、疲れから回復することによって以前に勝る能力を得るようにできている。疲れない活動は人間を、心身ともに以前より脆弱なものにしてしまう。
自分のことが自分でできるようになることがおとなになることだっていうんなら、全人類がおとなじゃないってわけだな。
新・三無主義。無知・無能・無責任。これに無恥を加えて新四無。かつて三無(四無)を言われた1955年前後生まれに蔓延している模様。
朝(あした)に道を聞けど夕(ゆうべ)には忘れてる、かなり。 ※生き延びるコツ
ほとんどのひとは生まれてきたこと自体が存在意義なのだから、頑張って今生の課題なんか考えなくても大丈夫。考えないとヒマで死ぬって気持ちはわかるが、それはつまり今生の課題ではなく自分自身のヒマ潰しだということで、その自覚のもとにいろいろ考える…
学びて而して時にこれを弄ぶ、また悦しからずや。
ものごとに必ず意味が必要なんてことになったら、息苦しくて三日も生きちゃいられねえな。俺の知らないとこに意味はあるのかもしれねえ、だが俺がそいつを知ってなきゃならねえ必要はねえだろう? そいつはそれが必要な誰かが探したり集めたりしてりゃいいの…
どんなことも教訓になる。そこに教訓を求めれば、必ずなにかが見つかるからだ。だからどんなことも教訓にならない。求めなければそれまでだからだ。
『人生に無駄なことなんかひとつもない』という金言を見てふーむと唸り、「でもそれって、とりあえず無駄なことと無駄でないことを分けてるんだなあ」「分けてから無駄なんかないっていってるわけだなあ」「じゃあ無駄を定義するだけ無駄じゃね?」などと考…