2023-05-01から1ヶ月間の記事一覧
運を逃すのはたいがい運を見極めている間のことであり、不運に見舞われるのはたいがい不運を見極める手間を省いた時である。
好奇心に勝る動機はないがそれに従うのは最も危険な行為でもある。
たのしく生きたければ、まずなにがたのしいかを識らなければね。識らないなら学べばいいし、学べなければつくってしまえ。もっとも、学ぶ能力・つくる能力を修得するのが先だがね。(そしてそれらは誰にでも修められるものではないんだが)
つまらないことを百あつめてもおもしろくはならないし、おもしろいことを百あつめても百倍おもしろくなるわけではない。だがたったひとつの知識はつまらないことをおもしろく変えることがあるし、ひとつのおもしろいことを百倍おもしろくすることもある――逆…
美は観る者によって定義されるものであって、美自体が独自に屹立するものではない。従って美の価値は定義する者の価値に比例する。そして定義する者の価値は当人が定めるものではなく、その者を囲む者たちによってのみ定められる。
それを抱く者の消滅によって成就する類のものを愛とは呼ばない。
自身を愛せない者が他者を愛せるわけもないが、他者を愛せない者が自身への愛を保つこともまた不可能だ。時にいずれかが失われることがあってもそれは一時的なものでなければならず、出来得る限り早く両者の並立を取り戻さなければ双方がともに失われる。
ひとの生が夢のためにあるんじゃない、夢のためにひとの生があるんだよ。だから夢が断たれればひとの生もお仕舞いさ。それでもなお生を保とうとするのなら、それはもはやひとではないってことだ。
檄も飛ばす先があっての話。
やれやれ、ゴミはどこまでもゴミだってことか。
その通り、ひとの価値や生死は多数決で決まるものではないからね。誰に必要とされていなくとも生きていていいのだし、世界中のひとびとに憎まれていても死ぬ必要はない。自身が決めればいいのさ。自身が信じられればの話だがね。
いやいやそれは「やらなければならないこと」ではなく「やらなければならないといいなあと思いたいこと」だろう? キミが検証すべきは、そう思いたい自分自身そのものなのではないかなあ。
まあ自分の役目を決めるのは自分自身だからね。どんな役目がなお残っているかも自身で決めていいし、決めるのが筋でもある。だが役目が済んだと思ったなら、とっとと舞台は降りるべきだろう? それもまた筋ってものだぜ。
自身のみっともなさは誰かにいわれないと気づけないものだが、難しい点はそれを指摘する誰かのみっともなさの規準が自分のそれと合致するか否かにある。これが合致しなければ指摘されたことは認められず、そしてその規準が自身のものだけほかとかけ離れてい…
弔いは生者が生きるために必要な段取りだ。従って生きることを目指さない人間は誰を弔う必要もないし、弔う資格も備えていない。
結果として総てが裏目に出てもそれを認められない、認めたら仕舞いだからだね。さてそして、認めないゆえに悪い方向へ転がり続ける今を、今度はどう否定するつもりかな?
えっ。まだ人間のつもりでいるの? それは少々ならず図々しいんではないかい?
人間には人間のことしかわからない、いやそれすらよくはわからない。まして人間以外のことなど人間にはわかりようもない。だがそこに興味をもってしまうのが人間というものの難儀なところなんだ。人間でないモノも知りたい、それは人間ならではの衝動だよ。
勝ち逃げは許さないが負けてふんぞり返るのも許さないぜ。
大切な部分には毛が生えているもんだ。ということは人間は、全身あんまり大切じゃあないところだらけなんだな。
どんな時だって最後の味方は自分自身さ。それが信じられなくなったら、まずほかの誰もが手助けはしてくれないだろうね。もっとも早まることはない、味方がゼロでも最後の手段は残っている――人間をやめるって手段がね。
自分なら大丈夫、誰だってそう思うもんさ。だからこそ自分の頭の中にそんなことばが湧いてきたら気をつけなきゃ。同様に自分だからダメなんだって思った時にも注意が必要だ。要するに自分が特別ってことはまずないってことなんだ。そして面倒なことに、特別…
ある業種にはその業種なりの則がある。むかしのひとはそれを知っていて、自分が参加しない業種に自身の理解できない則を見出しても距離をとり認めることで対処してきた。今は世界が狭すぎて十分な距離がとれないから、理解によってその距離を短くてすむもの…
自分の正当性を声高に主張するのも結構だが、なぜそんなことをしなければならないのか、どういう事情でその事態が出来したのかを考えるのもわりと大切だと思うんだ。
防いでも防ぎきれなかったものを事故と呼ぶのであり、防ぐ気が元からなかったのならそれは事故ではなく故意の所産である。
生産の手段をもたない生物の生存はほかのいのちの消費によってのみ維持されるのだから消費したほかのいのちに見合うだけのいのちであり続けることがいのちとしての責務のひとつに数えられてよいのではあるまいか。
過去が消費された現在の累積である以上その過去の否定や積極的な消去は当時の現在の否定と消去でありたった今の現在も順次過去に置き換えられていく以上は現在も将来的に否定あるいは消去され得ることの証明となり未来は次の瞬間の現在であるからそれは未来…
その感情が特別なものだという保証はどこにもない、保証など到底できないことは自分自身がいちばんよく知っているはずだ。
誰が赦しても自分が赦さない、そういう結論へ至らなければこれまでに君が紡いできた君自身のすべてが嘘になる、灰塵と化すわけさ。それくらいはわかっているだろう?
知識を得たことを喜ぶことと誇ることはぜんぜん違うってことは知っておこうな。