2022-07-01から1ヶ月間の記事一覧
何もなくなることなんか何もほしくなくなることに比べれば屁でもねえよ。
明日が見えないことより今ぜんぜん楽しくないことの方が恐ろしい。
背を向け立ち去る者に対し残された者は爪痕ひとつ残せない。その無念を知る者だけが復讐者を嗤え。
ひとの存在は物理的な有無によってではなく記憶という形而上的な認識の有無によって実現している。従って物理的に消滅しても周囲に記憶が残ればそれは存在し続けているといえるし、逆もまた然りである。
別に殺したいとか死んでほしいってんじゃない。生きててほしくないだけだ。
手を汚しても遂行する者は好きになれないが手を汚そうともしない者は大嫌いだ。
壊す者はいつだってそうさ。壊されたものに詫びたりやむを得ない理由を語ったりするが、壊れるってことがどういうことかをまったくわかっちゃいない。
背中で語る暇があったら辞書片手でもたどたどしくてもかまわんから口で言え。言えないのなら引っ込んでろ。
ひとがひととして脆弱なのはそもひとではないものがひとであろうとしているからだ。ねこを見よ。なにをせずともねこである。いぬ然り、さる然り。もともとそうではないものを規定しそこへ入ろうとして入りきれず歪むのはひとだけだ。
君がしたことが何であるかがわからないって? それはねえ『ひとごろし』っていうんだよ。いや確かに相手は骸にこそなっていない、だがその相手は拠り所を失い何をしようという意欲もどうありたいという展望もなくしているんだろう? 君がそれを失わせたんだ…
憎しみがなにも生まないなんてことはない。ちゃんと拡大再生産をやっとるぞ。
まあそれでも憎まれるうちは華だよ、憎しみすら抱かれなくなったら惨めなもんさ。
不幸になってほしいと願う相手がいるひとは願いが叶った時の自分の幸福を想像することができる分だけ幸福に近い場所にいる。
どんな償いも常に喪失を埋めるには足りない。
好き嫌いから逃れられないことを知っていれば好き嫌いを飾る必要もないはずだ。
何のために在るかなどはわからなくてよい。在った結果として何が生じたかをわかれ。
自分のためであることを恥じる必要はない。誰かのためが頭によぎった時に恥じろ。
自分が今どんな音楽に触れたいかがわかるひとは、自分が今どんな状態にあるかを知っている。自分が今どんな物語に触れたいかがわかるひとは、自分が今どんな状態へ向かいたいかを知っている。
畢竟人間は自身の器を越えることについて理解はおろか大雑把な想像すらなし得ないものなので目前に巨大ななにかが登場すると自身に理解可能な切片のみを認識し対象全体を矮小化することで対処しようとするため結果的にその巨大ななにかに踏み潰されるまで事…
狩る者は少数精鋭で挑む。耕す者は数を以てよしとする。どちらも目的に沿った選択であり、それぞれに正解である。これを統一しようとする者は目的を見失ったかそもそも目的を理解できていない者であり、いずれにせよ判断を預けるには足りない者である。
信仰する者は信仰しているという自覚によってのみ信仰者足り得る。信仰に気づかず信仰する者は単なる愚者であり時として信ずる対象を害意なく害する害虫にもなり得る。
人間の未来を拓くのは常に人間だ。閉ざすのは常に以外の存在だ。
いっそ「命は道具」と言い切ればまだしも評価に値するものを。
それはそれ、これはこれ。
巻き込まれたくなければ自分が巻き込む側に回ることだな。
ひとの行動は常に自分のためのものであり他者のためにおこなわれるものではないが、目先のことに気を取られ将来の自分に害が及ぶ条件や状況を見逃すと、その行動は自分のための役には立たなくなくなってしまう。そしてその結果が訪れた時にはすでにすべてが…
自分が誤解されていると感じるのは自分は自分の正解を知っていると考えているゆえだが自分が知る自分の正解が確かな正解であるとは限らずむしろ自分が知る自分の正解ほど誤解である例は多い。
「相手の身になる」という考え方の傲慢に気づかぬ者がその傲慢さで他者に害を及ぼす。
理解が及ばないことに対して態度を保留するのは否定されてはならない選択肢のひとつではあるが、それはその件に関する責任一切を拒否する理由にはならず、むしろ主張を放棄した責任を問われる可能性がある選択肢であるから、その選択は将来的に保留しなかっ…
加害者になることを恐れていてはなにかを成し遂げることはできないが、それは積極的に加害せよという意味ではないし、ましてや加害が成し遂げる条件というわけでもない。