2017-01-01から1年間の記事一覧
俺の不幸は俺が招いた結果だ。俺は誰かに不幸にされちまうほど安くはないんでね。
空腹は発想を貧困にするが、満腹は精神的労働自体を阻害する。要するに腹いっぱいじゃアタマははたらかないってことだ。適当に飢えているのが理想なんだよ。
だぁから自分のできる量はもっとシビアに考えとけっつーとるだろうが。まったくもう。
愛は語るより溺れる方がたのしい。
キミに足りないのは空気を読む能力じゃない。読んだ結果を活かす能力だ。
本当に酷い目に遭えば感情なんて凍っちまってむしろ楽になるもんだよ。だから戦争なんかやれるのさ、人間は。嘘だと思うかい? ふふふ。
余裕ってのは、ない時にはないこと自体に気づかない。余裕ができた時に「あー、あの時オレ余裕がなかったんだぁ」って思うもんなんだよ。
よくもあしくも人間の生は一度きり。だから取り漏らすイベントはたくさんある。でも、それぞれが歩いた軌跡はほかの誰にもトレースできないのだから、そのイベントの組み合わせは唯一無二のもの。比較できないもの。だから誰かの生と引き比べるような馬鹿馬…
意地を張るのは悪いことじゃないが、もっと違うものを張った方が人生はたのしくなるんではないかな。宴とか。
いや、それは違う。たとえば『バスケットボールをする』は、バスケットボールというひとつの行為を参加者全員で組み立てることで、その最中には全員がバスケットボールという行為を共有し、互いに協力しながら運営している。だが『愛しあう』というのは、愛…
理論上、幸福は認識によって生じるものゆえ物理的な制限を受けず、従って幸福を求める者全員に等しく行き渡り得るはずなのだが……うーむ。
確かに繋がっていたという記憶は、たとえ奥深くに埋もれても機能し続ける。繋がることへの恐れを振り払い、ひとりであることを拒み続ける。その記憶は、どんな論理や思惟にも勝る護符となる。
悔し涙が流せるくらいに激しい自分をもつってのは、いいことだと思うんだ。
迷うのは欲があるからだ。だから迷ううちはまだ大丈夫だ。
どこの世界にも下衆と認定される人間はいるもので、ごく一般的な世間の人々から下衆の吹き溜まりと称されるような場へ行ってもそこで下衆と認定される人間が見つかる。いったい人間の下限といえる品性にはどこへ行けば巡り会えるのか。
価値観がまちまちな時代にはことわざが成立しないという新発見。
正しさに縋りたくなったら存在意義が危険域にあると思うべきだ。
忘却は最上の赦しということを知らない人が多過ぎる。
衰えるとは弱まることではなく失ってゆくことだ。
愚者が討議に参加しその結果を価値あるものにするために唯一できることは沈黙である。
『蒟蒻問答』は人間のありようを語り尽くして般若心経に匹敵する希有の哲学譚だ。
敬意に至らないのは知らないからだ。知ることができれば誰でも自ずと敬意へ至る。哀れなのは知る能力をもたないモノであって、これは永遠に敬意へ辿りつくことができず、従って敬意からもたらされるさまざまな幸福を得ることもできない。
識字率が高いことと文章を読めることがイコールではないことはいうまでもないが、文章を読めることが意味を受け取れることとイコールではないことは見落とされがちだ。
理由をほしがるのは、人間の悪いクセだ。せっかく見つけた理由を片っ端から否定したがるのは、人間のもっと悪いクセだ。そして人間の最も悪いクセは、そういうすったもんだをどうかすると十年かそこらで忘れてしまい、五十年もすればまた一からやり直すこと…
事件にならなきゃ報道されることもない、そんな当たり前のことを想像する能力もない困ったちゃんが聞いた風な口をきく。それに頷く者がいる。かくて世はこともなし。
こどもに尊敬される親になれなくてもいい。トモダチみたいな親にはなりたくない。ただ、いつか懐かしんでほしい。感謝なんてしなくてもいいし(だいたい感謝されるような親じゃない)、一度かそこらで充分だから、いつか“あぁ、あいつがオレの親だったんだよ…
何事につけ熱くなっているうちはまともな判断ができないものだが、まともな判断ができるようになった時にはもう飽きているので判断の必要がなくなる。結局まともな判断ができてそれを活かせる事例はものすごーく限られてしまう。
「今日できることを明日するな」も「明日できることを今日するな」も、同じことをいってるんだよ。つまり「やれ」ってことだ。その辺がどうも気に入らない。「やらない」って選択もあるんだからね。
酒を入れなきゃできないことはするな。本当にする必要のあることなら、素面の時にもちゃんとできる。
好きなものは好きなんだから仕方ないだろう、自分を偽ってもいいことはない。だがそれを表沙汰にするかどうかは別だな。