かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

『煮詰める』

 少なくとももう二〜三十年は前から、物事が行き詰まることについて「煮詰まる」って言い方をすることが、一般化してるよね。
 本来、抽象的な事柄に「煮詰まる」っていう言い方をする場合、いろいろ散漫だったことが整理され収斂して、かなり定まった方向性や具体性を帯びてくることを指すものなんだけどね。
 この語の誕生の場と思われる料理の世界で「煮詰まる(煮詰める)」って言う時は、やっぱり今でも「不要な水分がなくなってイイ感じになる(水分飛ばしてイイ感じにする)」っていう意味合いで、悪い意味には使われない。
 でも、こんなこといってる自分自身からして、作業が膠着状態に陥った場合に「ういー煮詰まったあるねー」とか呻いてたりする。印象としては、煮物の水分が狙った以上に飛んじゃって、ドロドロになっちゃった状態なんだろうな。
 それと、「詰まる」という語からくる印象に、あんまりよろしくないものがあるからなんだろう。実際、他に「詰まる」がくっついてる語──手詰まりとか行き詰まりとかとどの詰まりとか──に、いい結果を連想させるものがない。
 ある程度選択肢が狭められた状態で流れが停滞もしくは停止する、ってのが「詰まる」の第一の意味だもんな。逆に、本来の「煮詰まる」の方が例外的な使われ方をしているといっていいのかもしれない。

 似たような経過をたどっている言い回しに「気の置けない」ってのがあるよね。
 本来は「とりたてて気を遣わずともいい親しい間柄」って意味なんだが、近年では「気の許せない」という言い回しと混用されてる。というより、多くの人が「気の置けない」=「気の許せない」だと思っている節がある。
 これは多分、「気」の捉え方が変わったんだろう。
「気のおけない」の場合の「気」は、自分のためのものじゃない。「気の許せない」の「気」は、自分のためのものだ。相手に対して遣う「気」と、自分のものである「気」。そのバランスが変わったってことだろう。つまり「気の置けない」が本来の意味で使われていた時代は、「気とは他者のために遣うものである」っていう風潮が、主流ではないにせよ相応にあったんだろうが、近年になって「気」は自分のものになったので、その「気」をぽんと置いとくことができない=用心が必要、っていう流れ。
 こんなとこにも戦後の個人主義の影響があるんですなあ。まあ俺も思いっきり戦後生まれの戦後育ちだけどな。

 そういう視点から改めて「煮詰まる」の変化を考えてみると、実はこれも視点が外から内へ移動してることがわかる。
 対象を煮詰めて必要な要素だけに絞り込む、っていう観方じゃなくて、自分の内側で要素が減りすぎて身動きできない状態になってきた、っていう観方になってるんだ。客観から主観への変化、といってもいい。
 本来の意味合いの「煮詰まる」は、客観視すべき対象物の状態をいうことばだったんだよ。それを対象物の側から感じるようになってるんだ。第三者の状態をいう時も、その第三者自身の内的状況に「煮詰まる」を適用しているわけで(たとえば「彼、煮詰まっちゃってんのよ」みたいな例ね)、ワンクッションで主観的なんだね。
 まあ「相手の身になってみなさい」ってのを実行しちゃってるんだから、そう悪いことでもないのかもしれないけどね。客観から主観への変化は。
 でもそれはしばしば、自分自身を客観視する能力にも影響するからな。いいことばかりでもない。それに現実には、相手の身になったつもりの誰かさんは、単純に自分の好みで相手の状況を判断してるだけだったりするしな。本当に「相手の身になる」ってのは、相手の価値観をトレースすることでもあるんだ。簡単じゃないんだよ。

 まだある。
「情けはひとのためならず」ってのは、「他者にかけた情けは、回り回っていずれ自分への情けとなって帰ってくる。だから積極的にひとに情けをかけなさい」っていう、いわば自分を中心とした情けの流通をいったことばなんだが、近年では「情けをかけるとひとはその好意に甘えて自分でなにもしなくなる、つまりひとのためにならないから、情けはかけちゃいけません」って意味で解釈される例が多いらしいね。
 情けの循環ってのは、外部(幾多の個を繋いで成立する共同体)があって初めて成立するもんだ。で、客観視すべきものを主観的に捉える個人主義が、他者の干渉を拒むか無視するものであれば、情け流通回路にはそもそも加わらないものってことになる。情けというかたちで他の個に干渉するのは、自分への干渉を拒む者にとっては自分の在り方に矛盾する行為だからね。思いっきり主観的に「情け」ってものを捉えちゃった結果、外部から個への干渉としての「情け」を、主観的に拒絶してるんだ。そしてそれを、自分の価値観に基づき、他者に適用している。
 これまた力強く主観的であり、個人主義的なのであります。

 そういう風に眺めてみると、近年になって使われる場面が変わった、ってことばの多くに、同じような経緯があるように思える。個人主義の台頭、客観から主観への視点の移動、ついでにいえば認識している世界の狭小化。
 不思議なもんで、これだけ情報流通が活発になっていても、むしろ昭和の頃より個々が認識している具体的な世界の規模ってのは、どうも縮んでるっぽいんだな。若い子と話をしてたりすると、そう感じる。もちろん俺たちやそれより古い世代が感じていた世界の規模だっていい加減なもんで、なんの裏づけもない感覚の産物でしかないんだけどさ。裏づけを求めていったら、そりゃあ世界なんて自分の行動範囲を越えるものにはならないんだけどさ。それを加味しても、少なからぬひとびとの世界が小さくなっている気がして仕方ないんだよ。(でもってこれは、他者の価値観のバリエーションに対する認識の不足にも繋がっている。平たくいえば、自分以外の誰かの考え方を考えることができなくなっている、ってことだ。だから自分の価値観を無意識に他者に適用・転用して省みないわけね)
 で、世界のことについてあんまり考えたり感じなくなったりした分、代わりに、そのひと自身、個についてのエリアが頭ん中でひろがっている。そういうことが、ことばの捉え方にも当然のように影響してるわけだな。

 そんなことに気づいたんで、最近はちょっとわくわくしてるんだ。なんとなれば、次はどんなことばが主観に絡めとられてその意味を変えられてゆくかに、すっげえ興味があるのさ。俺にとっては思いがけないことばが主観で料理される時、どんな意味合いになっちゃうのか。そこに個はどう影響しているのか。それを見たくて聞きたくて、わくわくしちゃってる。
 ああなんか楽しみ。