かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

万物溶解液の話

 こどもの頃に触れたなぞなぞに、こんなものがあった。
「博士はついにどんな物でも溶かしてしまうスーパー溶解液のレシピをつくりあげた。だが博士はその液体を作ることができなかった……なぜ?」
 答えは「作った液体を入れておく容器がなかったから」。
 一読、なるほどーと思わせられる論理性を備えている。
 だが、だからこその悔しさがある。正しいけどそれズルい、という印象だ。筋が通り過ぎていることへの感情的な反撥といってもいい。
 それで、どうにか裏をかけないか、と思っていたら、こんな回答があった。
「博士がその液体を作ることができなかったのは、ロケットもってなかったから」
 なんだそりゃ、いきなり……と思うでしょ。
 つまりはこういうこと。
「それが薬品を混ぜて作られるものなら、最後の混合をおこなうまではスーパー溶解液じゃないから、入れておける容器があるはず。そこで、最終反応一歩手前の素材をつくり、それを持ってロケットに乗る。そして無重力空間まで出たら、そこで“宙に液体を浮かせて混ぜる”。そうすれば容器はいらない。それができなかった博士は、つまり無重力空間に出るための乗り物=ロケットをもっていなかった」
 この回答も、こどもの頃に見ている。
 見て、それはもう爽快な気分になった記憶がある。

 もちろん、「そんな手間までかけてスーパー溶解液をつくってどうする」「空間で混ぜ合わせたとして、それをどうやって持ち帰る」「無重力空間でも材料を混ぜ合わせられるのか」極めつけは「そんなもん何に使う」と、ツッコミどころは山ほどある。あるが、“容器がないからつくれない”という常識的な発想の限界を、この回答は文字通りにその上をゆく発想で越えていると思う。次元が違う、といってもいい。液体だから容器に入れるという発想は二次元的、それを宇宙へ飛び出させた発想は三次元的だ。
 いずれにせよ、なぞなぞの発案者の限界を、この回答者は越えたのだと思う。
 この回答に触れた時の爽快感は、常識とされていることの限界、あるいは馬鹿馬鹿しさを、いやらしさ皆無で指摘した部分に由来するのかもしれない。

 おとなになってから、似たような発想が科学的に実在するらしいことを知った。
 宇宙合金、の発明プランだ。
 重力の影響がある限り、当たり前だが比重という概念も適用される。だから極端に比重の違う金属では合金がつくれないのだという。重い素材が沈んじゃって軽い素材は浮いちゃって分離する、ってことだね。
 だが重力の影響を受けない場所であれば、混ぜられる可能性があるわけだ。
 なるほどー。
 そうやってつくる合金がなんの役に立つのか、そもそもそれだけ比重が違いつつ合金になる可能性があるのか、溶解炉はどうするのか、そしてやはりそれだけのコストをかける価値はどうかといったツッコミどころはこれまた満載なんだが、でもおもしろいと思った。
 重力という地球上に在る限り離れられない常識を離れるだけで、こんなにおもしろいことが起き得るのか、という感じ。

 もちろん重力が常に悪役だというわけではない。常識もまた然り。ひねくれた目で見れば、そもそも重力(常識)があるからこそ、そこから離れる爽快感のようなものも生じるのだ。また世間には、こういう発想にむしろ不快感を覚える人だっている。そういう人にとっては、これらの発想の方がよほどひねくれているように思えるかもしれない。
 だが俺は、当たり前を一瞬でも大したことのないものへ転じさせるこれらの発想が好きだ。大好きだ。
 こういう発想は、気分をとにかく楽にしてくれる。
 実はけっこう得難いものなのかもしれない。