かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

汝ごんべさんを笑う勿れ

『リパブリック讃歌』(The Battle Hymn of the Republic)の当て歌詞は妙に多く、おそらく最も有名なのは「おたまじゃくしは蛙の子」ってやつだと思うが、次点かあるいは「おたまじゃくし」と一位を争うだろう有名なものに「ごんべさんの赤ちゃんが風邪ひいた」ってのがある。
 俺はあの当て歌詞がキライなんだ。大っキライ。

 歌詞の内容は簡単なもので、“ごんべさん”が赤ん坊の風邪に狼狽し、風邪にはなんの効果も期待できない湿布をしてしまう、というもの。歌詞はそれをどう評価するでもないが、中核にあるのは狼狽した“ごんべさん”に対する笑いであろうと思われる。
 その笑いの質が親近感やいわゆる微笑ましさからくるものであれ嘲弄の類であれ、それを笑うという態度が気にくわない。
“ごんべさん”は本気なのである。本気で赤ん坊を愛していて──それがどういう事情によるかはとにかくとして──、だから赤ん坊の体調不良に狼狽し、あろうことか湿布などという見当外れの処置をした。
“ごんべさん”がそれで満足してしまったのか、それとも「あぁこれちゃうわ、風邪やねんで! 湿布なんの役に立つかー! 風邪ならこっちや……って、ちゃうやろー!」と額に絆創膏を貼るというボケを重ねた上にノリツッコミまで披露したか、それとも「ワシこないだ捻挫した時に湿布貼ったねん、えろぅ効いたねん、せやからここも湿布や思うねん……そやけど効かへん、なんでや!?」とさらに狼狽したか、それはわからないが、とにかく赤ん坊を大切に思うあまり行動が滑ったわけであって、そこには剥き出しの愛情があると思うのだ。
 この愛情は、風邪に湿布を貼るという奇矯な(あるいは無知による)(でももしかしたら家にそれしか薬になるものがなかったからなのかもしれない)行動にも揺らぐことはなく、むしろそれがあるゆえになお際立って切実である。笑える状況ではない。笑える者は、愛する誰かの窮地に立ち会っていなかったり、大したこともないことが愛情ゆえに重大に感じられ結果的に精神の不安定が惹起されたりという経験がないか、もっと根本的には本気で誰かを愛したことがないのだろう。然り、愛情などという盲いた感情に支配されている時、ひとはものごとの判断を誤りがちである。まさしく針小棒大に事態を捉えてしまいがちである。それもこれも、愛する対象へ自身のすべてを捧げるほどに傾倒しているからであって、逆にいえばそれだけの混乱をもたらすのが愛情というものなのである。“ごんべさん”は子に対してそれを発動させている。まさに愛情の権化である。
“ごんべさん”が権化さんであること自体の意義や価値は問わない。とにかく“ごんべさん”はそれだけ本気なのだ。それに対して笑いを以て対するというのは、それがたとえ親近感や微笑ましさに起因するものであったとしても、礼を欠いている。そういうものを万人に提示した者、つまり作詞した者の感性が腹立たしい。狼狽するひとのこころを理解できない者なのだろうと思う。あるいは一元の価値観によって事情を測って省みない者なのかもしれない。風邪に効く湿布だって、実はあるのだ。

 もっとも当の“ごんべさん”にしたら、笑ってでももらわなきゃ照れくさくて困る話なのかもしれない。だがそれはあくまでも“ごんべさん”当人が決めることであり、当人以外が沙汰する問題ではない。当人が「いやーこないだ慌てっちまってよォ、こどもの風邪に湿布貼っちまったァ」と頭を掻き掻き言うのだったら、そこは逆に笑って流すのが礼儀ではある。
 いずれにせよ“ごんべさん”は、こどもに対する愛情を体現した人物であって、それを笑うということはこどもを愛するすべての者とその愛情を笑うに等しい。
 そんなわけで俺はあの歌詞がキライだ。大っキライだ。
 愛情を笑う者に禍あれ。