かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

その発言は誰のもの

 人間ってのは根本的に分断され孤立したものなのよね。
「いーやそんなことはない!」と仰るあなた。あなたの最も親しいひとはどなたですか。あなた、その方のこと全部わかりますか。
 その方と向かい合って話をしている時、その方がたとえばテーブルの下で組んでいた脚を組みかえたとして、その理由がわかりますか。単に同じ姿勢でいて脚が痺れたからとかの理由じゃないかもしれませんよ。ぱんつの穿き心地が今ひとつだったかもしれませんぜ。相手が女性なら、パンストのシームが微妙なとこにあって、ずらしたかったのかもしれません。あるいは単になにも考えない行動だったかもしれません。
 そういうの、あなたは全部わかりますか。
 わかるわけ、ありませんね。
 自分のことならわかるんですけどね。だいたいね、ほとんどね。
 ひとのこととなったら、一から十まで全部を把握することは不可能。たとえどんなに長い時間をいっしょに過ごしてきたとしても、無理。
 そういう具合に、人間はほかのひとを全部理解することはできませんし、自分自身を誰かに理解してもらうこともできません。人間はそーいうものです。(それがありがたかったりもするんだ、これが)

 じゃあ人間は、どうやって相手のことを考えているのか。
 ひとつには、経験学習による部分があります。
 以前同じようなことがあった時には、こうだった。だから今回もそうだろう。こういうパターンね。
 これはけっこう有効な手立てです。ただ、データリングに時間も手間もかかります。そもそもに、相手のことを理解しようとする(というよりは“知ろうとする”)努力がなかったり、その方法を知らなかったり、そもそもにその必要性に気づかなかったりしたら、どんなに時間をかけても無駄。
 相手のことを考える=相手との関係を充実させようとする(その充実が必ずしも世間一般で“よいこと”とされるものであるとは限らないw)意欲と努力その他いろいろに時間が加わって、初めて経験学習による相手への理解が進むわけね。
 当然ながら、よほどの達人でない限り、そう何人ものひと相手にそれができるわけじゃありませんな。生涯に十人も達成したら、ちょースゴイですよ。
 それぐらいに意識を傾注しなければ、そういう理解を結べる相手なんてのはできるもんじゃないのね。

 だから多くの場合、ひとは、「自分だったらこうだよね」という基準で、相手のことを推し量っているものなんですよ。
 それは、目前に今いるひとの行為についての推量ばかりじゃありません。会ったことなど一度もない、当然会話を交わしたこともない誰かの行動について言及する時にも、ひとは自分を基準にして考えちゃうわけです。
 というより、それ以外に方法がない。

 もちろんそれは、単に自分の傾向のみでおこなうことじゃありません。
 さまざまなデータに触れ、その蓄積から材料を選びとって推量をおこなう、ってことになります。
 ですが、材料選択やその組み合わせには、どうしたって個々の傾向が反映します。
 たとえば冒頭の「脚の組みかえ」についても、観察者が男性で被観察者も男性であった場合には、「んー?“ポールポジション”が悪かったんかな? ボールの方かな?」なんて発想はふつうにあるでしょう。一方、観察者が女性、被観察者が男性であった場合には、そういう事情についての知識があったとしても、即座にそこへ発想が至ることはほとんどないものと思われます。(あ自分は男性です念のため)
 まーね、たいがいの女性はソレがどんだけ邪魔っけなもんだかご存知ありませんからね。当たり前ですけどね。
 ね? 個々の傾向が反映しちゃうでしょ?

 さあもう勘のよい方は、自分がなにをいおうとしてるか、わかっちゃいましたね。
 誰かの行動に対して判断をする時、ひとは実は、自分が想像し得る範囲でしかそれをおこなえないんですよ。
 たとえば震災に対する誰かの支援活動とその公開に対して、「売名行為だ」という意見を浴びせるひとは、支援活動&公開と売名が結びつく考え方のもち主なんですねえ。もしかしたら中には、自分自身の売名の機会を虎視眈々と探しているひともいたりするかもしれませんねw もちろんそういうひとばかりじゃないと思いますけど。
 不謹慎をいい募るひとは、その支援活動が(あるいは公開が)不謹慎な行為であると考えているわけで、これもまた自身が支援活動を不謹慎なきもちでおこなうタイプなのかもしれません。これももちろん、そうとばかりは限りませんw
 よーするに、です。
 外的ななにかについて反応する時、その反応は、その反応をした当人の中において生じた連結によってのみ、発生するってことです。
 そしてそれはしばしば「オレだったらこーする」的な回路から発生する。
 会ったこともない誰かの行動について言及する時には、「さてはこんなこと考えたな。だってオレだったらこう考えるからな」なんて仕組みが動いていることもある。

 だからね。
 発言は、誰に向けられたなにについてのものであっても、そのひとそのものを、如実に反映しちゃうものなんです。
「いーやワタシは違う、ワタシが知っているこーいう情報やあーいうデータを連結することによってごく客観的に当然のように至る一般的な結論である!」
 と仰る方もおいででしょうがね。
 そもそも個人が知り得る情報の絶対量、その情報の取捨選択基準、そういうものは一般化なんてできないんですよ。必ず傾向がある。
 それがまったくないというのなら、そのひとはつまりまったく個性がないわけです。そんな人間、見たことありますか? 自分はありません。どんなに没個性のひとでも、個性皆無なんてあり得ない。個性の主張の巧拙や強弱に差があったり、その個性が(自分にとって)魅力的かどうかの違いがあるだけです。
 個性そのものがないなんてひとは、見たことがない。これはもう断言しちゃう。
 もっとも自分の知っている世界は狭いので、自分の知らない世界にそういうひとは実在するかもしれませんけどね。でもそういうひとは、それはそれで強烈な個性のもち主っていえるからねえ。個性皆無なんて、これ以上はない強烈な個性だもんねえ。

 というわけで。
 どんな発言でも、その発言は、およそ発言者当人について言及したものであるってことです。
 そのひとだから、そう考える。そのひとだから、そう発言する。そういうもの。
 すべての発言は、そのひとの中だけから発生しているのだということです。

 今日いいたいこと、以上。