かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

『竹谷隆之の仕事展』

 毎日巡回かけてるブログがいくつかあるんだが、そのうちのひとつ『プロップfactory』で『竹谷隆之の仕事展』が紹介されていた。
 いきなり余談で申し訳ないが、このブログ、映画の小道具(プロップと呼ばれる)のレプリカやフィギュアのコレクターさんが運営しているもので、特に銃器についての記事が(オレには)大変におもしろい。たまたま銃器関係の検索をした時にヒットして以来、幾度かのハードウェアトラブルでお気に入りリストが消えても再検索しちゃあ巡回リストに加えている。
 で、『竹谷隆之の仕事展』だ。
 竹谷隆之といえば知るひとぞ知る、てゆうか名を知らずとも、特撮が好きで少しでもフィギュアに触れたことがあるひとならまず間違いなくその作品には接しているといって過言ではないお方だ。「えーわかんないよー」という向きは自分でウェブ検索して調べてちょうだい。(ああ便利な世の中になったもんだ)
 ここんとこ、伜(一歳三か月になりましたー)の世話は保育ママさんに預けることで一段落も二段落もつき、小口ではあれど定期的に仕事も入ってくるようになって、いろいろな意味で余裕が出てきた。そこへ、竹谷展の情報。しかも開催場所が東メ千代田線湯島駅そばだという。湯島っつったらオレには地元みたいなもんだからね。某きょぬー公務員さんと天神さまへ梅見に行ったこともあるぐらい地元だもんね。これは行ってみようじゃないか、という気になったのも当然といえば当然のこと。
 てなわけで行って参りましたよ『竹谷隆之の仕事展』。


 それにしてもさ、湯島駅からほど近い場所にアートスペースがあるなんて知らなかったよ。場所を確認した時には「こんなとこにマシな建物があるわけないな。雑居ビルの類を好事家が棟借りでもして採算度外視で運営しているか、あの辺にある模型屋さんが期間限定で会場つくったんじゃねえのか」とか思ってたんだが、現地に行ってみて「……あり? ここ前、学校じゃなかった?」戻ってから改めて調べて判明。廃校になった中学校の建物の再活用なのだった。
 いやあ街ってしばしば行かないとダメだねえ。
 こないだも二年ぶりぐらいで新宿へ行ったら、知ってる店が片っ端からなくなってたしな。びっくりだ。


 さて本題の『竹谷隆之の仕事展』。
 ひとことでいって、圧倒された。つか、それ以外に形容することばもない。
 それほど広くもないスペースに並べられた作品の数々は、ひたすらに圧倒的。
 緻密だから? まあそれはある。生々しいから? それもある。メカニズムと生体のハイブリッド、その融合センス? まあ基本だね。いやいやいや、でも、そんな表層的なもんじゃないのだよ。もうね、ひとつひとつの作品から――それはもう一点作りの品から一般販売品のリビルド/リファイン作品に至るまで、すべてから絶後の存在感が放たれているの。ひとつひとつが、魂の塊といってもいい。それも生半可な魂じゃなく、めちゃくちゃな質量を備えた魂だ。
 抽象的すぎて伝わらないって? んーまあそうだろうなあ。でもさ、そもそも展示された品々すべてがひとつの完成された作品なわけだよ(竹谷氏本人にしたら未完成かもしれんけど)。その作品は立体造形物として生み出されている。それをわざわざ、ことばという別の媒体に置き換えてどーするのだ。結局その作品が備えたものを、その作品以上に語れる媒体なんかないのよね。あとは現物に触れてください、だ。ある意味これはオレの職務放棄にも等しい発言ではあるのだが、真実だと思っている。大昔、まだ音楽関係のライターをしていた頃にも同じことを思っていたよ「ミュージシャンは音で伝えたいから音楽をやってるのに、なんで横からことば屋が精度の低いファイル交換をやる必要があるんだ」って。「『そのミュージシャンのライブへ行け』で済むだろう」って。そんな感じ。竹谷隆之の仕事は凄い。それがすべてだ。


 会場で見知らぬおばさまに声をかけられる。「凄いですね」的な。おばさまの曰く「解剖学にも詳しくなければ、こうまでリアルな作品は作れないでしょう」
 思わず遠回しに反論してしまいました。概要=解剖学的知識は確かにあるにこしたことはないが、それは十分条件ではないし、必要条件でさえないかもしれない。なんとなれば観る側に必ずしも解剖学的知識が備わっているとは限らず、そしてご覧の通り竹谷作品の中には明らかに解剖学が成立しない題材のものも少なくない。必要なのは作家がその作品を成立させようという意思であり、特にこういった立体造形においては「これがある」という作家の確信なのではないか。それがたとえ六本腕二本脚の蜘蛛男だったとしても、それが存在するという確かな意思を作家がもった時、その作品はリアルになるのではないか。
 ごめんねおばさま。ボク凄い作品に触れて気が立っていたの。
 でもこれ本音といえば本音なの。
 ファンタジー作家がファンタジー作品を著す時、その作家はそのファンタジー世界を確信しているの、そうでなければ書けないか、書いてもろくなもんにならないの。立体造形家も同じだと思うの。解剖学的知識とかメカニズムへの知識ってのは、そういう作家の確信をごく軽く後押しするぐらいの役にしか立たないと思うの。逆に、知識によって作品をつくろうとしても、傑作にはならないの。かたちは整っても、それだけ。こんなパワーは出てこないものだと思うの。ごめんねおばさま。

 ……と、まあそんな感じの作品がずらっと並んだ展覧会でしたよ、という。
 六月いっぱいやってるらしい。行ける距離にいて行く意思あるひとは是非行ってみるといい。あと写真撮影可なので(珍しいねえ)、心得のある向きはカメラ持ってくといいよ。オレ心得はないけどカメラ持ってかなかったことを心底後悔してる。でももう一度行く財力はさすがにないの。入場料¥1,200也は今のオレには二か月に一度の贅沢レベルなの。ぐっすん。


 で、竹谷作品でフラフラになったあとは、秋葉ガ原を通り過ぎて淡路坂を登り、お茶の水で楽器鑑賞。ここでひとつショック。淡路坂が、隣地の再開発の余波をくらってか、全面的に改修されちゃってた。あのツツジの帯もほとんどなくなってた。
 淡路坂はね、JR中央線総武線)沿いの坂でね。昔は昌平橋南詰の始点から聖橋南詰の終点まで、ずーっとツツジが植わっててね。うまく盛りの“日”――そう、時期じゃなくて日――に通り合わせると、まるで千切った綿を滅多矢鱈に道端に貼りつけたような見事な咲きっぷりを見せてくれた坂なんだよ。
 それを改修しちゃうって、なんなんだもう。
 ああホントに街はしばしば行かないとダメだ。


 で楽器鑑賞ですが。
 こっちはハズレでした。って、それはけっこうわかってたんだけどね。先々月、絵里ちゃんのお墓参りに行ったついでにお茶の水楽器屋街に立ち寄ってたからね。
 それは長くなるんで別項に譲る。