かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

「嫁」考

 この間、這いつくばって床の拭き掃除しながら、なんとなく考えていた。
「オレの嫁」という言い回しについて。

 ヲ関係の方が、大変に気に入った女性キャラクターに対して使う言い回しだ。
 その方面にあまり興味のない人にとっては、えらく気味悪いものなのだろうと思う。非実在の対象を嫁と呼んで憚らないことについて、「そういう人生ってどうなん?」と感じる人も少なくないだろう。実際にそういうヲ者と話していると、そこに微妙な洒落心というか自虐の外連味めいたものがあり、むしろ味わい深いのだが。
 実は俺、この言い回しが本当はすごく健全なものなのではないかと思うことがある。
「嫁」という class についての印象がその根本だ。

 おんなへんに家と書いて嫁と読む。やまとことばの語源については知らないが、多分「め」の音は「女」を意味する「め」だろう。
 嫁とは、他家からやってきて自家に入る女のことと辞書にはある。訓読みでは「とつぐ」になる(音読みのまま動詞化した「嫁す」カス、という表現もある)。嫁ぐことによって娘は生家から切り離され、婚家でまったく新しい人生をやり直すことを強いられる。嫁に実家はあっても所属は婚家であって、実家からは他人となるわけだ。
「幼くあっては親に、嫁げば夫に、老いては子に従え」とは、そういう人生の在り方を凝縮したことばだ。「女、三界に家なし」ということばもある。三界とは過去、現在、未来のことらしい。女とはかつてことほどに居場所のない存在にされていたわけだ。嫁という語は女の、そうして強いられる流転の人生の一時期を指すものなのだと思う。

 だから俺には、嫁ということばを使うことへの抵抗がある。
 女性はひとつ(あるいはそれ以上)の独立した人格を備えた存在であるのに、それを家という制度に付随する部品のひとつのように扱うことばが「嫁」だという印象をもっているからだ。
 えーそんなことないよう、と思うひとは、「嫁なんだから」ということばのあとにどんな内容が続くものなのか、いくつか考えてみてほしい。そこに現れるのはおそらく「勤め人なんだから」とか「学生なんだから」というのとは違う、かなり限定的なものになるはずだ。そして結婚が今以上に大きな意味合いを備えていた時代、つまり社会的に結婚という制度が大変に重視されていた時代に「嫁なんだから」が備えていた圧倒的な強制力も考えてみてほしい。

 そういう class、「嫁」であれと現実の人間に強いるって、どうなのよ。
 かつての封建制度の中であればそれが社会のモラルだったのだろうから、それについて今さらとやかくはいわない。でも今は違うんじゃないか。少なくとも俺は、嫁という語に含まれるさまざまな要素(俺固有の印象も含めて)を実在の女性に強いるつもりはないし、実在の女性にそれを実現してほしいとも思わない。
 たとえば俺に配偶者があったとして、そもそもに俺自身は、なにゆえその女性を配偶者として選ぶほどに評価したのか。
 それはその女性に個性を認めたからだ。他の女性とは違う、という認識をもったからだ。それをなぜ「嫁」という型に嵌め込む必要があるのか。
 さらにいえば、嫁とは関係性をいう語ではない。class をいい、また役目をいう語だ。彼女とか恋人という語は関係性を表す語だが、嫁は立場をいう語なのだ。そして立場というものには必ず求められるアティテュードがあって、立場を強いることはアティテュードを強いることとイコールといえる。強いられたアティテュードは当人本来のものではない。そういうかたちで個性を潰すことを望んで俺は配偶者を求め選んだのか。否。であれば、嫁と呼ぶこと自体が無意味ではないか。いやむしろ悪いことになる。無意味は無為だが、積極的に有為(それがよいことであれよくないことであれ)をもたらすのが嫁という語ではないか。
 そう、実在の女性に「嫁」の語を適用することは、その女性のアイデンティティに対する侵犯になり得るのだ。

 一方で、旧来の男女(夫婦)関係に対する憧憬や郷愁というものは、誰にもどうしてもあるものだろうと思う。なにしろそれは、長年に渡って実行され続けてきたスタイルであり、多くのひとは自身の両親、つまり自分にとっての最初の世界によってそれに触れていたはずだからだ。
 たとえば、夫唱婦随という語。夫が唱(うた)い婦(つま)が随(したが)う、という構図。これには単に夫がリーダーで婦(嫁、妻)が従者という関係性ばかりではなく、むしろ女性側が男性の行動を大目に見ているようなおおらかさを感じることがある。おそらくは唱という行為に俺がもつ印象に因るのだろう。
 ヒロイックな物語に憧れる者にとっては、出征した自分を待ちながら家を守る存在が必要な場合がある。当人が凡人である場合だ。そして待つ者は両親や兄弟姉妹よりも、他家由来の誰かであればなおよい。なぜなら血縁家族の自分への評価は基本的にプラスだからだ。一方、他家由来の者が自分に与えてくれる評価は、ゼロ(場合によってはマイナス)から始まる正味の評価である。それに基づいて戻るかどうかもわからない自分を待ってくれるということは、人生まるごとかけての評価ということになり、つまり自分のアイデンティティが得られ得る最強の肯定となる。それを実現するのが旧来の夫婦関係であるのなら、これは魅力的なのではなかろうか。出征先が戦地であろうがドラゴンの巣であろうが会社の自分の席であろうが同じである。
 なお、なぜ凡人限定なのかといえば、ヒロイックな物語においては、逆に生還によって肯定を得るという流れが王道だからだ。だが凡人がそれをするのは無茶。凡人は成果の先払いがないとなかなか動けない。その先払いがつまり“待つ嫁”なのだ。
 他にも挙げればいろいろ出るだろうが、くどいからやめる。要するに、旧来の夫婦関係に対する憧れは男女の別によらず誰しももつだろうということ、そしてその憧れをもつ者が男性である場合、その夫婦関係を成立させてくれる相手は一般的に女性であり、そしてその女性に求めるものを集約した語が「嫁」になる、ということだ。

 ここに単純至極な二律背反が生じる。
 個性を以て選んだはずの配偶者に、紋切り型で個性を重視しない「嫁」を求める。
 これを現実におこなうことには、人間としての知性があるなら、いささかならぬ抵抗があって当然だ。
 そこで、そもそも矛盾した対象にそれを適用する。
 つまり人格(character)を備えながら、人間ではないもの。
 創作物中の登場人物に嫁をやってもらうわけだ。
 これはいい手だと思う。
 実在の人格に嫁という立場を強いずにすむ、つまり人格を侵犯せずにすむし。
 相手は文句を言わないし。言ったとしても自分の想定内のものだし。
 それでいて自分の求める嫁像は完遂されるし。
 実在の人間にそれを求めるよりスマートで平和的、人道的なんじゃなかろうか。

 ヲ者が女性に求める理想像(嫁像)はしばしば非人道的だったりする。ヲ者はそれを充分に自覚しているゆえ、その実現を自らあきらめる。だが自分の欲求そのものは否定しない。それは自己否定という大変なストレスに繋がるからだ。そこで非実在の対象にそれを担わせることで、ストレスの低減を達成する。
 もちろんヲ者の理想像が遥かな高みにあり、実在の女性にはそもそも達成・到達が不可能であって、ゆえに非実在の対象に託すしかないという事情もあるだろう。この場合、ヲ者の自身の欲求に対する評価は実はさらに客観的であって、「リアル女はダメ」という酷評は「自分の高望みはどーしようもない」という自己批判とセットなのだ。
 もっと単純な点では、たとえば上記のような「嫁」に対する感覚──それが女性の個性を圧迫するものという感覚──がある場合、それは現実に存在する女性には使ってはならないもの、非実在対象に限定して使われるべきもの、という考え方もあるだろう。これはとりあえず、実在の女性に「オレの嫁になれ」と言って憚らないバカ男よりもよっぽど gentle だと思う。健全なのだ。

 ……てなことを這いつくばって床拭きしながら考えていたわけ。
 で床を拭き終えて雑巾絞りながら最終的には「まあそこまで考えて『オレの嫁』言うとるヲ者もあんまりおらんだろうな。それ自体がひとつの紋切り口上なだけだわな」と思ったんだけどな。