かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

夏の足跡

「テニスシューズだ。テニスシューズは、ちゃんと入っているか?」
 店主は、ずいぶんと老いたその手、真冬の木の端にようやくしがみついている小枝を寄せ集めたようなその手を伸ばして、ガタゴトブルブルと震えている車にまだ積み込まれたままの仕入れ品の山に触れた。
 車は大きな街の問屋から来ていた。荷台には、この店の分はもちろん、これから回る幾つもの小さな町の小売店に届けるための荷が、山ほど積み込まれている。
 おそらくは町の名士と呼ばれる人々が買って悦に入るために準備されたのだろういかにも高級そうな革靴は重厚な造りの紙箱の中で眠り、その夫人の足を飾るための、きっとよほど精緻な細工を施された靴は、それに寄り添うように小柄で上品な箱に収まっている。それとは少し離れた場所に、安手の紙袋に入れられた靴の一群がある。その紙袋は確かに安手だったが、表面には鮮やかな色で刷られた、踊るような文字が並んでいた。
 車を運転してきた髭面の大男は、今は荷台にあがって、荷降ろしをしているところだった。手にしている帳簿を見ながら、「ほらよ」と言ってその紙袋のひとつをつまみあげた。
「これだろ? ちゃんとあるから、安心しな」
 店主は眉根を寄せ、しげしげとその袋を見た。
「サイズはどうだ? 6.5だったか、7か……いやいや、もう8にもなるかもしれんな。それはいくつだ? いくつのサイズだ?」
「注文通りの品だ。ここに書いてある、7だ。この店の分は、これだけだ」
「そうか、7か。そうだな、それでいい。それでいいに違いない、それだ」
 店主は何度も頷きながら、その袋を受け取ると、そのまま店の中へ消えてしまった。
 髭面は、やれやれ、と言いたげな顔をして、仕分けされている荷を降ろす作業を続けた。
「7だと。毎年だものな。今年も7だ。7のテニスシューズ……毎年だ」
 呟いて、作業を続けた。


 店主は店に戻ると、紙袋を開け、中から真新しいラバーソールを取り出して、埃を払った。
「そうだ。これが必要なんだ。この夏のために……この夏を、あの子がちゃんと飛べるようにな。河だって、家だって、望むなら犬だって飛び越えられる。そのための靴だ。それがあの子には必要だ。そして儂には、それを準備してやる義務がある。なんといっても儂は、靴屋なのだからな。儂はあの子の、靴屋なのだ」
 ささやかな、けれど確かな笑みが、店主の頬に浮かぶ。
 それをショーウィンドウの、一番目立つところに出して、店主は満足そうな顔になった。
 そうだ、これでいい。これを見てあの子は、冬の終わりを知るのだ。この靴が教える夏の到来に胸をときめかせ、いてもたってもいられなくなる。あの子が自分でこれを買うために、この店の下働きを務めたのはいつの夏だったか……去年? 一昨年? いやそれは、まだ来ていない夏のことなのか。そしてあの子は、誰よりも軽やかに夏を駆けるのだ。そしてそれを、靴屋である儂は、誇りをもって眺めてやるのだ。


「ああ、すみません。ひとりで働かせてしまって」
 店の奥から若い男が出てきて、髭面に言った。髭面は、強い髭の奥にある大きな口をがばっと開き、その中にずらりと並ぶ少し黄色い歯を見せて笑いながら答えた。
「いや、おれの仕事だ。……爺さん、相変わらずのようだな」
 若い男は、「ええ」と答えると、男が荷台から押し出す荷物を受け止めながら、ほんの少しだけ困ったような顔になった。
「7のテニスシューズだ。爺さん、去年も一昨年も、その前も……毎年、7のテニスシューズを待ってる。ここではそんなに、7のテニスシューズが売れるのか?」
 問いかける髭面に、若い男は首を横に振って答えた。
「今どきの子は、テニスシューズでは喜びゃしません。どうかすると、ラバーソールなんか履かないんだ。もっとおとなびたものを欲しがりますよ」
「じゃあなんだって爺さん、あんなに毎年」
「……さあね。父さんがこの店を継いで、僕が継いで……その前になにかあったのかもしれませんけどね。祖父が少しでも正気になるのはこの季節だけなんで、したいようにさせてるんですが。まあだいたい毎年、夏が終わる頃にはそっと片づけてます」
「そうか。まあいいさ、別におれが損するわけでもねえし、あんたも爺さんがそれでおとなしくしててくれるっていうんなら、高い投資じゃあるまい。だが……」
「だが、なんです?」
「できれば、あの爺さんがテニスシューズにご執心の理由を、いつか聞いてみたいもんだ」
 髭面はそう言ってまたにっかりと笑うと、手にしていた帳簿にペンを走らせながら呟いた。
「……サンダスン靴店、これで終了、と」
 やがて車は、大地を蹴飛ばすようなごろごろとした音を響かせて、走り去っていった。