かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

『アシュラ』

 メンヘル系の板をつらつら眺めていて(悪趣味……ですよな。そこは突っ込まんといてください)、突然、既視感に襲われました。
 いや、あの手の板ってさ、関心もって半年も経てば、まあたいてい既視感の渦中に捕らわれるもんなんですけどね。そういうんじゃなくてね。
 これはメンヘル系に関心をもつよりずっと前、それこそ何十年も前にある記憶だぞ……と。

 で、思い出しました。
『アシュラ』です。ジョージ秋山の……これは、傑作といっていいのかな。ケッサクという音にこだわるのなら、決作といった方がいいのかもしれない。いずれにしても、凄い作品。
 連載は講談社の『少年マガジン』で、1970(昭和45)年33号から71(昭和46)年22号まで続いたといいます。連載時には、何度かチラ見した程度。すげえ恐かった印象があります。まとめて読む機会に恵まれたのは、20年ほど前。『少年マガジンヒストリー』というデータベース制作に絡んだ時のこと。完全版とはいい難い編集版ではありましたが、それでも(あるいはそれゆえに)激しいインパクトを改めて受けたことを記憶しています。

『アシュラ』とはどんな作品なのか?
 今どきは、検索一発でたいがいの情報は得られますから(キーワード“ジョージ秋山 アシュラ”でなんぼでもいけます)、あんまりくどいことは伸べません。ざっと、ね。
 おそらく平安期かその前後に相当する世界の、飢饉の時代に生まれた少年がありました。彼が主人公です。彼は、狂気に堕ちた母から生まれ、飢餓に苛まれた母に食われかけます……とだけ書くと、まるでその母親が全部悪いみたいに思えますが、けれど、その母にしても少年を生み落とすまでに、そしてまた彼を育てるために、自身のことを省みず必死の(そう、文字通りに必死の)サバイバルを繰り返すのです。彼女は哀れですが、悪人ではありません。多分。
 で、少年は辛くも母に食われる難は逃れますが、以後、人間の社会というものから隔絶された世界で、ひたすら生を繋ぐために獣のように育つことになります。ですが、やがて人間と接触をもつようになり、さまざまな苦難に出会います。ことばを覚え、名前も得て、その結果、自身の打ち消せない罪を知ってしまい、懊悩するのです。
 彼は、繰り返し呟きます。
「生まれてこなければよかったのに」と。

 この物語の大きなターニングポイントになるのは、彼が「アシュラ」と名づけられるところです。
 それまでは獣然として、声にしても唸ったりわめいたりしかしなかった(できなかった)彼は、旅の僧によって、少年の母が彼につけるつもりだったという名を与えられた時から、流暢にしゃべるようになるのです。
 ここに自分は、いくつもの象徴的な事柄を感じます。
 命名の意味。ひとの社会を構築するエレメント。ひとであることとはどういうことか……etc.(余談ですが、このシチュエーションは後日、たかもちげん『祝福王』でも使われていました)

「わかる」ということばがあります。
 この語源は「分かる」だといいます。つまり、分類するのです。「世界」という状況から、自分のものとして取り入れたものを、世界から「分かつ」こと、それが「わかる」ということです。
 わかったことは、自分の手元へと、世界から分けておいておく。まだわからないことは、世界の方にそのままある。それがつまり、「分かる」ことなのです。
 自我、あるいは自我を自我として認める客観的な認識がない限り、自分自身は「世界」とイコールです。ですが、ある時に多くのひとは、自分と世界がイコールではないことを知ります。以後ひとは、世界から切り離されてしまった helpless に悩み、自身と世界の境界線がどこになるのかを考え、またどうすれば世界とうまく折り合いをつけられるのかに汲々とし続けることになります。多分それは、死ぬまで続きます。仏教でいうところの悟りとは、再び自身を世界に還すことなんじゃないかと思うぐらいに、個々と世界との「分かり」具合は大きいものなのです。
 アシュラが、名前というもの、つまり「ひととして社会に関わる資格あるいは義務、もしくは社会による存在の認定」を得た時、彼はおそらく同時に、「わかって」しまった……わからざるを得なくなってしまったのでしょう。世界から分かたれて、ひとという分野に押し込まれたわけです。
 世界から引き剥がされて彼が投げ込まれた先には、価値という概念がありました。秩序がありました。法もあれば、罪も罰もありました。
 そして彼、アシュラには、翻せない過去があったのです。ひととしてではなく生きてきた、長い過去が。ひとの組み上げた社会に属せないまま、その価値観に触れることもないまま過ごしてきた、長い長い過去が。
 そりゃ、「生まれてこなければよかったのに」とも思うことでしょう。

 それがメンヘル系とどんな繋がりをもつのか。
 いや単純な話で、メンヘラー様が自身の状態を自覚し、少しずつでも“良く”なってきた時、彼らはまさに名前を得た瞬間のアシュラになってるんじゃないかと感じたんですよ。
 これ、きっと、まじパネェっすよ。きついっすよ。つらいっすよ。
 そういえば、いわゆる鬱病は、治りかけが一番危険だと聞いています。わかりやすい説明だと、「本当に鬱状態の時には、すべてにおいて積極性が失われていて、当然ながら死ぬ気にさえなれない。ところが少し浮上してくると行動力も増し、それが最悪の事態を引き起こす原因になることがある」ってのがありました。
 でも、多分それだけじゃないんだな。麻痺に近い状態に陥っていた判断力がわずかでも機能し始めると、当人はよほど深い苦しみに投げ込まれることになってしまうのかもしれません。
 なんてことだ。今さら『アシュラ』を介して思い至った。

『アシュラ』には、知る限り、完全な終幕がありません。
 少年アシュラがどうなるのか、どうすればいいのか提示されることはなく、あくまでも(物語の中の)現状の一点のみが示されて、唐突に終わります。当然、救いなんてありません。読者全員に投げかけられる「生まれてこなければよかったのに」ということばが、独白とも問いかけともとれるかたちで呟かれて、終わっています。
 そんな終幕になった理由のひとつに、『アシュラ』という作品が、残虐描写が多いという事情で市井に指弾され、打ち切りに近いかたちで連載終了に至ったという事実があります。けれど、作者ジョージ秋山氏が、この問題に対して安易な結論を提示することを拒んだ、という部分もあるのでしょう。
 だから『アシュラ』は、懊悩の只中にあるひとにとっては、ほとんどなんの意味もなさないと思います。いや、毒であるといってもいいかもしれません。けれど、その懊悩に至らないひとにとっては、大きなきっかけになるかもしれません。
 それは決して、異世界の話ではないのですから。たとえそれが創作物の中の話であっても、物語の舞台が今いるこの時代この世界の話ではなくとも、真ん中にあるのは、まさに現在進行形のひとのことなのですから。そして未来にも渡ってあり続けるだろう、根源的な問題なのですから。
 今、改めて多くのひとに触れてみてもらいたい作品であることには、違いありません。

 それにしても、ジョージ秋山というひと。
『アシュラ』は二十代の末頃に描いてらっしゃるんですよね。
 なんてすごいひとなのだろう、と、これまた今さらのように思います。
 そのひとが活躍する時代に居合わせることができた幸福を感じずにはいられません。