映画『ワイルド7』観てきた【⑦ その他及び次作に期待したいこと】
ここまで書いてきて改めて思うのは、この映画の制作スタッフの苦労の焦点は、ワイルド7という荒唐無稽な設定(あるいはシステム)を、どうやって実写映像の枠に入れ込むかであったのだろうなあ、ということです。
それはわかりやすくいえば、原作を知る誰もがもっている原作に対する思い入れへの回答を準備することですし、また原作を知らないひとに対しては“初めて触れる「最凶の切り札」を、相応に納得できるものにできるかどうか”という問題のクリアです。
つまり、観客が原作を知っているか否かにかかわらず、“実際に目で見て幻滅しない”ワイルド7の姿というものを提示できたかどうか。それがこの映画の価値を定める基準になるだろう、ということです。
これは制作者にとって、かなりしんどい作業だったはずだと思います。
それは、自分にとってはある点ではクリアされたものでしたし、ある点では届いていないものでした。まあそんなことは当然のことで、全部クリアなんてことは、よほどのことがない限り起きないでしょうし、逆もまた然り。つまり「ある点ではクリアされた……」なんていい種は、感想として無価値ではあります。
けれど、傲慢を承知でいってしまえば、クリアした点があった(それも幾つも)ということは、すごいことだと思うんですよ。
なにしろこっちは四十年分の思い入れをもってるわけですからねw
ただ、監督には、かなりの迷いもあっただろうと思います。
それを強く感じたのはクロージング、スタッフロールの後ろに流れる映像を見ていた時でした。
出演者たちが揃ってカチンコを持ち、和気あいあいと舞台裏風景を見せてくれます。
自分にはそれが、ひどく艶消しなものに思えました。
なぜか。
それが出てきた途端に、今まで見ていた映画が、完全な絵空事になってしまったからです。
俳優さんたちの和気あいあいは、ワイルド7の友情も、草波の正義感も、ユキの復讐心も、すべてがウソですよ、作り話ですよ……という証明に他ならないのです。
監督はもちろん、観客がそういう気分になるだろうことを見越して、というよりそれを望んで、あのクロージングを編集したはずです。
ではなぜ、そんなことをして、わざわざ映画の世界を突き放そうとしたのか。
それは、ワイルド7という設定自体に対する、監督自身の意思表示なのではないかと思えます。
有体にいえば、「これ、虚構ですから。悪人を退治する組織なんて、ありませんから。そんなのを国家が作ることなんて、あり得ませんから」ということを、強調したかったのではないかと思えるのです。
実は自分、ラスボスがチャラいとか、セカイのキャラがどうだとか、オヤブンがとかいうことよりも、そこが一番、不満でした。
たとえば、007シリーズが、ムチャクチャな話を展開したあとで、「いやあホントはMI6なんてありませんから」と、わざわざ説明しますかね。
トゥームレイダーやインディージョーンズはどうでしょう。オーメンは。エクソシストは。ティム・バートンのバットマンは。(つか古い映画ばっかりじゃないか自分w せめてM:Iシリーズぐらい出せww)
……しませんよね。
なぜか。
そういう説明をする必要があるってこと自体が失敗になっちゃうから、じゃないでしょうか。フィクションのエンタテインメントを提示する者としては。
それに、そんな説明をすることは、映画を楽しんだ観客に失礼でもあります。
なにしろ『ワイルド7』は、決してつまらない映画じゃありませんでしたからね。腹の底からの快哉を叫ぶような場面こそありませんでしたが、幾度も「ぅおぅ」と呻く場面はありましたし、感動もしたんです自分は。なのに、最後に「いやぁ、実は……」なんてやられたら、たまらんですよ。
不思議なマジックに感動した、そのそばから手品師が種明かしをしたら、その感動が残るでしょうか。観客はむしろ感動した自分に苛立ち、手品師は安っぽいペテン師に早変わりするんじゃないでしょうか。
だからね。
続編があるなら、もっと開き直った展開が見たい、というのが正直なところなんです。
もう外堀は埋め尽くした。その前提で、迷わず悩まず、“任務”(映画では“作戦”でしたが)を遂行してほしい。
飛葉が、人形ではなくなった。守りたい、という、見失っていた目的を再びがっちりとつかんで、生命を取り戻した。じゃあ飛葉は、次にどうするのか。金輪際、自分が「守る」ことが、実は誰かから「奪う」ことと隣り合わせにあるのだ、なんてことに悩んでほしくありません。盲目的でもいい、「守る」ことに徹して、そして憎むべきものを憎み倒し、排除し尽くしてほしい。
草波は充分にいい感じでしたから、あの路線で。強いて欲をいうなら、もっと執拗に、もっと厳しく、“正義”というものを邪なまでに追求してほしい。
ワイルドの面々はその分、ウェットでいい。友情を感じることに、後ろ向きになってほしくない。彼らの過去の飢餓、埋めようのない飢餓を癒すべく、みっともないぐらいに友情や信頼をむさぼってほしい。
そして悪は、吐き気を催すほどに悪であってほしい。そういう悪に対してこそ、ワイルド7というシステムは切り札になり得るのですから。
神話三兄弟のように。秋戸十次郎のように。そして、秘熊玄一郎のように、あるいは日向光のように。
確かに、現代という時代設定でそれをやることには、ウソ臭さがついてまわってしまうだろうと思います。そのウソ臭さを消すために今回の映画では、さまざまな注意がはらわれていたと思います。そしてそれは、かなり成功していたと思います。
だからこそ、開き直ってほしい。最後に全部をひっくり返すようなことは、しないでほしい。そして、もしそうやって作られた作品が、ひどく背徳的な、あるいは陰惨な、またあるいは血腥いものになってしまったとしても、それがワイルドなのだと堂々としてほしいんです。それでも“退治”すべき悪が存在するのだ、と。だからこそこういう作品が求められもするのだ、と。
それがあってこそ、今回はなかった快哉は生じるのではないかと思っています。
……と、勝手放題を書き散らかしましたが。
これだけ書くだけのインパクトがあったゆえのこととご理解いただきたく。
もし関係者の方々がご覧になって腹を立てられたとしても、どうかお目溢しを。
えーとさて、おまけ。
好きなシーンあれこれ。
[ヘボには妙に素直なB.B.Q.]
「坊やはなんでこんなところにいるの?」と失礼極まりないナメた質問をするヘボに、「……だって他に行くとこねえもん」と少年のように素直に答えるB.B.Q.。ああもうなんか可愛い、可愛過ぎるよふたりともっ。
[あっいきなり望月ワールドがっ]
ユキを追跡した飛葉が迷い込んだウェアハウスのクラブ。そこで展開されているショーといい、舞台上の女の子の雰囲気といい、もうこれは完全に望月ワールド。状況設定は『コンクリート・ゲリラ』冒頭の場面に近いけれど、映像はむしろ望月ワールドの概観といった感じ。一瞬ではあるけれど、手間のかかったシーンに違いないと思います。
[飛葉のシャツをちゃっかり部屋着にしているユキ]
ユキの中の秘めた純情、「突っ張らかっているけれど、でも……」的な恋慕の情と、それを不自然に感じさせないひたむきさが漂っていたりして、ちょっと胸がどきどきしました。こういう姿の深キョン、オヤジ心を串刺しにしますね。
[敵本拠地突入/セブンレーラーから飛び出す!]
このシーン大好き。
彼らが放つ銃弾のひとつひとつが、彼らを閉じ込める檻でもあるセブンレーラーの土手っ腹に風穴を開け、そしてそこからまばゆい光が飛び込んでくる……そしてついには、その壁を突き破って彼らが飛び出し、遂行すべきことを遂行する。
こんな気持ちいいシーンちょっとありません。美しいし迫力もあります。
銀行強盗退治の場面では被弾しても全然堪えなかったセブンレーラーが、なんでワイルドの銃弾には穴だらけになるの? というツッコミは却下。完全に却下。そんなとこ突っ込んで喜ぶような手合いには、自分がレッドカードを投げつける所存。
[新たな任務に向かう7人]
ラストシーン、いいと思います。彼らの疾走の先になにがあるのか見たい、という気にさせてくれます。
これだけ好き放題を書いておいてなんですが、次回、期待しています。