かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【#1 伯父さんのこと、お祖父さんのこと、そしてナカニシのこと。】-03

(承前)

“そうしょっちゅうなにかが無くなってるんじゃ、世の中不便すぎる”
 そのことば――ナカニシのことばは、僕にとって、かなり印象的なものだった。
 なるほど、と思ったんだ。
 そう、無くなる一方じゃ不便だ。というより、世の中が成立しない。ただ無くなるだけだったら、いつか世の中が全部消え去ってしまうはずだ。
 そんな風に考え始めたのは、ナカニシの四十九日が過ぎた頃のことだった。
 伯父さんが死んだ。お祖父さんも死んだ。ナカニシも死んでしまった。そして僕は、そのたびになにかが無くなるのを感じている。
 それが無くなったことで、世界が変わってしまったといってもいい。少なくとも、なにかの消滅を感じた僕にとって、無くなったなにかがあった頃と今とでは、世界の感じられ方が違ってしまっているんだから。
 でも世界全体は、一向に無くなる気配を見せない。変わりながらも、まだ在る。
 ということは――僕は考えた。
 無くなった分、なにか新しいものが増えてきてるんじゃないだろうか。
 僕が気づいていないだけで、減った分が増えているんじゃないか。
 じゃあなぜ僕が気づかないのか?
 多分それは、混ざっちゃってるんだろう。
 僕はなんとなく、そう思った。
 世の中にそもそもあったのに僕が知らないだけのものと、新しく補充されてくるなにかを、僕が区別できていないだけなんだろうと思ったんだ。
 僕にはまだ知らないことが多い。ナカニシが死んだ後、僕はそれをけっこう強く感じるようになった。それというのも、僕が少しは本を読むようになったからだ。
 ナカニシが死んだ後、僕はなんとなくナカニシの真似をしたくなった。
 ナカニシはいなくなっちゃったけれど、僕がナカニシのことを思い出したりする間は、実はまだナカニシは消えていないんじゃないか。そう思ったからだ。
 ナカニシと、ナカニシとともにあっただろうと思えるなにかはなくなっちゃっても、ナカニシそのものの記憶を、僕は失っていない。
 でも僕が忘れたら、きっとナカニシは無くなる。本当に消えてしまう。
 それがなんだか、イヤだった。
 だから僕は、ナカニシのことを忘れないために、ナカニシのしていたことをなぞってみようと考えたんだ。
 そう考えた時に最初に思い浮かんだのは、黒い紙にずっとなにかを書き続けているナカニシの姿だった。
 それで僕は、ナカニシがしていたように紙にいろいろ書いてみた。書いてみたけれど、あっという間に詰まった。紙が黒くなるほどなにかを書き続けることが、僕にはできなかった。すぐタネ切れになっちゃったんだ。
 それは僕に、それだけ書くことがないからで、それはつまり僕がそれだけものを知らないってことだ。
 だから僕は、本を読むことにした。ナカニシがよくしていたように。
 読み始めて、驚いた。僕は実際、なにも知らなかったんだ。
 一冊の本を読むのに、何度も知らないことばに行き当たる。最初は母さんとかに聞いていたけど、そのうち母さんが面倒くさがるようになった。それで今度は、自分で辞書を調べるようになった。
 辞書を開いて、もっと驚いた。ことばは、こんなにあったのか。世界を表現するための細かいパーツは、こんなにあったのか――そう思ったんだ。
 いや、別に辞書を初めて開いたってわけじゃない。ただそれまでは、辞書をそんな風に見たことがなかった。それまでは辞書なんて、とりあえずわからないことを調べるためだけの道具だった。それをひとつの“本”として眺めたことがなかった。
 でも、読もうという気持ちで本に向かい始めていたその時には、辞書もまた立派な本に見えるようになっていた。
 そうして眺めてみると、辞書という本の、なんとすごいことか! 
 カッコいい主人公が出てくるわけでもないし、ドキドキする物語があるわけでもない。美しい描写があるわけでも、切なくなる瞬間が封じ込められているわけでもない。
 それはただ言葉を並べただけのものだ。
 でもそれは、ものすごい迫力をもっている。
 辞書に収められていることばを、順繰りに読んでいく。すると僕は、次第に雑踏に立ってひとの流れを見ているような錯覚に陥っていく。
 雑踏を流れるひとびとを見て、ああ、あのひとずいぶんカッコいいジャケットを着ているなあ、とか、あのひととあのひとは仲がいいのかな、とか、あのひとはこの街は初めてなんだろうな、とか……そんな風に感じたり考えたりするのと、辞書に詰め込まれたことばたち、意味の脈絡はなくひたすら音の順序に従って並べられたことばたちを順繰りに見ていくのとには、なにかとても似たものがあるように思えた。
 その感覚を僕は、次には実際に目に見えるものに感じるようになった。というより、そういう観察の仕方、感じ取り方を、辞書から現実に適用するようになった。
 たとえば、登下校の道端に生えている草を見る時。草の葉っぱの生え方が、ふと気になったりする。
 葉っぱには、一本の茎から左右へ対で葉が生えるものがある。かと思うと、交互に生えるものもある。
 それに気づかないうちは、葉っぱは全部ただの葉っぱだった。でも、知らないなにかがあるかもしれない、っていう目で見てみると、それはひとつずつ違う葉っぱになる。
 そうして、いろんな新しいことが、僕の中に入り込んでくるようになった。
 おかげで僕は、中学の二年生になる頃には、かなりいろんなことを憶えていた。といっても、前に比べて、という程度だけど。
 不思議なもので、その頃には、特に記憶しようという気にならなくても、見聞きしたことがどんどん記憶に残っていくようになっていた。でも、それだけ新しい知識が流れ込んでくると、さすがに頭の中が息苦しい感じになる。記憶することに物理的な嵩はないはずなのにね。
 それで、思ったんだ。
 これじゃあわからないや、と。
 新しいことが増えてるのに違いない、とは思っても、“以前からあったけれど僕にとっては初めてだったこと”と、“本当にこの世界にとって新しいこと”の区別がつかない。
 もっとも、本当に新しいことの方は、きっと“感じ”のものだから、ことばとして定着しているものや、目に見えるタイプのものとは違うんだろうけれど。
 そうこうしてるうちに、伯父さんの一周忌が過ぎ、お祖父さんのが訪れ、そしてナカニシの一周忌までもが目前に迫ってきて、僕はちょっと困った気分になった。
 なぜって、高校受験がかなり近づいてきて、それなりに勉強しなくちゃならなくなっていたからだ。
 別に僕は、すごくアタマのいい学校へ行こうって思っていたわけじゃない。けれども僕は、それなりに勉強しなくちゃならなかった。その程度の成績だった。
 とはいえ僕は、勉強以外の新しいことをもっと知りたい――学校と関係のない本を読んで、学校と関係のないものごとを観察したいんだ。
 どうもこのふたつ、学校のこととそれ以外のことというのは、僕の中では両立してくれない。僕の知りたいことと、受験に必要なこととは、性質が違うらしかった。
 要領のいいひとなら、きっと上手に切り替えをしたり、あるいは受験勉強を好きになったりすることができるんだろう。でも僕には、それはちょっと難しすぎた。
 僕はなんともいえず重苦しい気分を味わうようになった。
 別に、親や先生に言われなくても、勉強しなくちゃな、って気分にはなるんだ。でも、勉強するよりも、ほかのことをしている方が楽しい。つい勉強以外のことをしてしまう。でも僕自身が、それはマズイだろ、って思ってる。その気分が重苦しいんだよね。
 そんな気分を味わいながらも、僕はとりあえず、宙ぶらりんの毎日を送っていた。
 中学二年の、秋。
 そうして僕の、ちょっとした物語が始まることになる。

(続く)