かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【#2 図書室のこと。】-01

(承前)

 その日も僕は、図書室で本を物色していた。
 授業が済んでも真っ直ぐ家に帰らず、学校の二階にある図書室でしばらく本を読んでから帰ることが、いつの間にか僕の習慣になっていた。
 もともとは、ナカニシを保つために始めた読書だった。でも今は、自分のためにしている。自分が読みたいから、本を読むようになっていた。
 じゃあ、ナカニシを保つことに、読書は効果がなかったのか?――あったともいえるし、なかったともいえる。
 確かに、例の奇妙なこと――紙を黒くして、その黒い紙になお何かを書きつけていくということは、ずいぶんできるようになっていた。読書は僕を、効率よく鍛えてくれた。僕はだから、ナカニシがしていたことの継承はできたことになる。
 でも、それをしても、僕がナカニシと同じことをしてることにはならない。僕はそれを、ナカニシの死から半年ほどもの時間が過ぎた頃、やっと理解することができた。
 僕が書くことは、僕が書くこと。ナカニシが書いていた(かもしれない)こととは、中身が全然違うはずだ。
 中身が違う以上、やっていることが同じでも、それは違うことにしかならない。同じカップに入れられていても、コーヒーと紅茶が同じものではないように。
 僕がどんなに本を読んでも、黒い紙に黒い文字を書いても、ナカニシにはなれない。僕はだんだん、それに気づいていった。
 もちろん僕は、ナカニシになりたくてそれを始めたってわけじゃない。ナカニシを忘れないために始めたんだ。だから本当は、ナカニシになれなくたってかまわないんだろう。
 でも僕は、やっぱり違う、という気がしてしかたなくなった。
 それというのも、ナカニシのまねをすればするほど、僕がナカニシじゃないことがわかってくる。ナカニシはナカニシだったんだ、と強く思うようになる。どんなに僕が本を読んでも、ナカニシを再現できるわけはないんだ。
 それが僕に実感させた。ナカニシは本当に失われてしまったんだ、と。
 それは寂しいことだった。僕さえ忘れなければナカニシは消えない――そう思っていたのに、実際には逆だったんだから。
 僕が忘れなければ忘れないほど、ナカニシは遠のいてしまう。ナカニシがもういないということが、明らかになってしまう。
 ナカニシは、消えてしまった。
 跡形もなく。
 ナカニシをまねてみることは、僕にそれをはっきりと教えてくれた。半年がかりで。
 けれども僕は、読書をやめなかった。なぜって、読書は僕に、それ以外にもいろんな新しいものを与えてくれたからだ。
 知識とか、知識を組み合わせて“考える”ことは、その代表格だ。楽しさ――知ることや考えることの楽しさも、知った。勉強と読書の板挟みになる時の重苦しい気分も、“なかったものが加わった”ということでは、収穫のひとつといえる。
 それに読書は、図書室という場所のもつ、なんとなくいい感じも教えてくれた。
 図書室って、けっこう楽しい。
 本がいっぱいあるのが、まず、いい。その本が放つらしい、ちょっと埃っぽいにおいが好きだ。本棚がぞろりと並んでいる様子も、整然としていて気持ちがいい。
 本棚と本棚の間を歩いて本を探すのは、迷路を歩き回るのに似ている気がする。かたちも、意味もだ。その時の気分も、僕は好きになっていた。
 放課後の図書室の住人というか常連というか、そういうひとたちも好きになった。
 クラブ活動とかをしないで、なんだか本を読んでいる。それぞれ読んでいる本は違うから、見ている世界はきっと、全員が違っている。だけどみんな、そこに、確かに、いる。
 そんな中途半端な連帯感みたいなもの。
 それが共有できる気のするひとたち。
 そういうものを、僕は好きになっていた。
 ほんの一年前には、こういう感覚を僕は知らなかったんだと思うと、もったいなかったような気分になる。けれど今は知っているんだからいいじゃないか、とも思う。そして、僕以外のひとたちも同じように感じているのかもしれないと思うと、なんだか嬉しい。
 そんな中に、なんとなく目につくひとがいた。女子だった。
 普段、廊下では見かけない顔だし、落ち着いた雰囲気があるから、きっと上級生なんだろうと思った。いつも放課後の図書室の真ん中辺りに座って、本を読んでいた。
 他の常連が、それでも毎日は顔を見ないのに比べて、彼女は本当に毎日、そこにいた。それがわかる僕も、それだけ毎日図書室通いをしていることになるわけで、彼女に僕は、なんとはなしに親近感を覚えたんだ。
 けれど、だからといって、僕と彼女は近づいたりはしなかった。毎日同じ場所で、同じことをしている……その雰囲気だけを、ただ緩やかに楽しんでいた。少なくとも、僕は。


 そんな図書室通いのある日。
 それがいることに気づいた時には、かなり寒い季節になっていた。
 制服はもう冬服に切り替わっていた。下校時の校門の辺りは、だから、まだらに黒い。
 僕は、冬服を着る時期の校門が、嫌いだった。
 冬服の時期、登校時の校門は、制服を着込んだ連中で真っ黒になる。特に、門限すれすれの時刻の風景は、“凝集”ということばをそのままかたちにしたような感じで、あまり気持ちいいものとはいえない。
 でも、下校時のまだらな黒さは、それとはまるで逆向きのものを備えていて、それが僕の気分を、登校の時の景色よりずっと落ち込ませる。
 どうにも隙間だらけで、でも黒い姿がちらほらと去っていく景色。僕にはそれが、ひどく不健康な状態に見えた。“滅び”っていうものは、こういう風にやってくるんじゃないかという気がした。
 劇的にドカーンとくるのではなく、あくまでもちらほらと隙間だらけに、けれど確実に到来する滅び。そんな雰囲気が毎日、冬服の頃の下校時の校門にはある。僕はだから、その風景がきらいだった。
 その日、そんな中に、やたらと黒いものがあった。
 そう、それはやたらと黒いものだった。ただなにか黒いものがあるというのではなくて、その周囲の空気までが黒く濁っているような感じ。僕には、その黒さの周り全体が、どんよりと澱んでいるように見えた。
 僕は、図書室の窓から見るともなく外を見ていて、それに気づいたんだ。
 図書室の窓からは、校庭の向こうの校門が見える。そこを行き来する者の姿が見える。
 僕は、窓際に並んだ背の低い本棚を見ている時、ふと顔をあげた拍子に、それの存在を知った。
 ……なんだ? あれ。
 最初は、ただそう思った。空気が濁って固まっている。そんな風に、それは見えた。
 でもそれは、僕のちょっとした思い違いかなにかなんだろう、と思った。
 なぜって、ぱらぱらと校門を出て行く連中が、誰ひとりとしてそこに――空気が濁っているところに――関心を向けなかったからだ。もしそこになにかがあるのなら、あるいはなにかが起こっているのなら、誰かしらが立ち止まるはずだ。
 でも誰も、反応してはいなかった。
 逆にいえば、その澱みは、誰にもアピールしていなかった。だから僕は、それがきっと思い違いなんだと思ったんだ。
 それでも僕は、しばらくの間、そこを見ていた。何度か目をしばたたかせたりもした。それが、相変わらず見え続けていたからだ。
 なんだろう。あれはなんだろう。僕は目を凝らした。それでやっと、どうやらそれがひとの姿をしているらしい、ということに気づいた。
 黒い人影が、周囲の空気を濁らせて、校門に寄り掛かっている。そんな構図がようやく定まった時、僕は少しぞっとした。
 いったいあれは、誰なんだろう。どうしてあそこにいるのだろう。そして、どうして誰もそれを不審に思わないのだろう。いやそれより、周囲の空気を濁らせるような人影なんて聞いたことがない……ない、いや……ある。あるぞ。でもそれは……人間じゃない。
 人間じゃないものが、見えるだって!?
 そこまで考えが進んだ時、僕は口の中で、
「……まいったなぁ」
 と呟いていた。
 これはきっと、現実じゃない。夢だ。それもどっちかといえば、悪夢に分類される方の夢だ。そう思ったから――いや、思いたかったからだ。
 よく、悪夢は行動を興すと醒めるっていう。だから僕も、行動を興したんだ。声を出すという行動を。
 でも、黒い人影は消えなかったし、下校していく連中の無関心も変わらなかった。僕はもう一度、少し声を大きくして言ってみた。
「マジかよ」
 変化はなにもなかった――いや、ひとつだけあった。校門を見続けるのが怖くなって、窓から体ごとを背けて視線を外した時、いつもの上級生女子が、僕の方をにらんで咳払いした。僕はうっかり、それほど大きな声を出してしまっていたらしい。
 ということは、どうやら、夢じゃない。
 いよいよ僕も疲れてるのかな。見えないはずのものが見えたり、あるはずのないものを怖く感じるなんて。もしかしたらこれが幻覚ってやつか? いや、なんとなく違う気がする。確かに最近の僕は疲れているけれど、かといって幻覚を見てしまうほど疲れてはいないはずだ。もしかしたらあれは、ごく当たり前にあるべきもので、ただ僕が知らなかっただけなんじゃないか? それはあり得る。僕はものを知らない。それにしても、周囲の空気を澱ませるようなものって……。
 僕はもう一度、窓から外を見た。
 気にかかる。気にかかってしょうがない。正体を知りたい、見極めたい。怖いもの見たさ半分、いい意味での好奇心半分といった気持ちだった。
 でもその時、それはもうなくなっていた。姿を消していた。
 僕は思わず「あれぇ!?」と声を出してしまった。
 僕が背を向けていたのは、ほんの一瞬のことだ。もしそれが物であったなら、誰かが運ばなきゃならない。けれど、それが見えていた門柱の辺りから、どこへどう移動させれば、これだけの瞬間に僕の視界からそれを消すことができる? もしそれが生き物であったなら、身を翻して門柱の陰に隠れるぐらいのことはできるだろう。でも、空気が濁っていた。それが物理的に存在するなら、その濁った空気はどうした? 煙のように消える、という形容はある。でも煙だって、風もない時に瞬時に消えるなんてことはない。いや、煙こそ消えるのに時間がかかるものだ。
 どうしたんだ? いったいあれはどうしちゃったんだ?
「そんなバカな!」
 今度こそ僕は本気で大声を出してしまって、自分の声の大きさにビクッとした。
 常連の女子が、また咳払いをした。
 僕は呆然として、窓の外を眺めていた。

(続く)