かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【#2 図書室のこと。】-04

(承前)

「おっかしいなー」
 また彼女が言う。その声は、悔しいけれど耳に心地よい、透き通ったいい声だった。僕は、“鈴を転がすような、っていうのは、こういう声のことをいうのかな”と思った。本の中に見つけた形容だけれど、本当にそういう声を聞いたことは、まだなかった。
「じゃあ、見えてなかったのかなあ」
 彼女がそこまで言うに至って、僕はついに立ち止まった。いや、身を竦ませた時点で、僕の足元はかなり危うくなっていた。歩くというよりはよろめくような状態で、僕はようやく前に進んでいたんだ。
 僕はゆっくりと、後ろを振り返った。消えていてくれ、頼むから。そんな気持ちで、振り返った。
 でも、彼女は、いた。
 そして、僕が振り返ったのを見て、にーっと笑った。
「やっぱ見えてるんだ!」
 彼女の目と口が、きゅーっと曲がった。それを見ながら僕は、ああこれが満面の笑みってやつなのか、と思っていた。
 心底びっくりすると、僕はむしろ冷静になってしまうらしい。パニックを起こすよりも、事態から心が離れ、妙に冷静に状況を観察するようになるらしかった。僕自身、初めて知った。
 僕は、彼女に言った。
「……あのさ」
 彼女は、“なに?”と言いたげな顔になって、僕を見ている。僕はさらに言った。
「……きみ、誰? なにもの?」
 そうだ。それが知りたい。僕が今知りたいことは、それなんだ。この女の子は、いったい何者なんだ。なぜ僕の前に現れる。
「ダレ?」
 彼女が僕のことばを反芻した。
「だれ……ああ、誰って、あたしのことか。知らないの?」
「知らないから訊いてる」
「なんだ、知らないのかー。知らないのに、よく見えたねー。すごい、すごーい」
「……いや……その……。すごいとかなんとか……どうでもいいから。……え?」
「え、って、なに?」
「見えないもんなの? 今きみ、知らないのによく見えたねって言ったよね。ということは、やっぱり見えないのが当たり前なわけ?」
「そうだよ。当然でしょ」
「いや、当然って言われても。じゃあなんで僕には見えるわけ? やっぱりそれは……僕がおかしくなってるってこと?」
「さあね、知らない。それはあたしの担当じゃないから」
「担当って……。その……きみは……」
 話がどうも噛み合わない。ただ、やっぱり彼女は、まともなものではないらしい。
 でも、僕はなんとなく感じていた。彼女はどうやら、悪いものじゃないようだ。狂気とか魔物や幽霊、あるいは祟りなす神。その手のものとは、どうも思えない。
 僕は改めて尋ねた。
「あのさ。きみ……誰?」
「んー。誰、っていわれても」
「名前とか、ないの?」
「名前? 名前……ね……。うーん、なんだろうな。ええと……そうだ、ミハル! あたし、ミハルだね!」
「ミハル?」
 ちょっと訛りのあるようなイントネーションだったけれど、名前だというのならそれでいい。ミハルさんか。漢字ならどう書くんだろう。美晴……美春かな。
「じゃあきみは、美春、っていうんだね」
「うん、そう! ミハル!」
「わかった。じゃあ美春さんは、なんで見えないわけ? いや、僕にだけしか見えないわけ?」
「だから、それは知らない。あたしの担当じゃないんだから。でもあたしは、キミについてなきゃならない。もうしばらくの間は、キミのそばから離れちゃいけないのよ」
「なんで?」
「そういう命令が出てるから」
「命令って、誰の?」
「えーと……それはあたしも知らない」
 はぐらかされているのかとも思ったけれど、どうも違うらしい。あたしも知らない、と言った時の彼女は、本当に困っている様子だったからだ。
 けれど彼女はすぐにまた笑顔に戻って、言った。
「ま、気にしないでいいから。昨日はあたし、見られてるって気づいてビックリして逃げ出しちゃったけど、見えてるなら見えてるでかまわないから。あたしはただ、キミのそばにいるだけなんだ。だからキミはさ、いつも通りにさ、学校、行きなよ。ね? 気にしないでいいから!」
「気に……しないでいい、って言われても」
「大丈夫。ほかのひとには、見えないはずなんだから。いつも通りにしてれば、きっと誰も気づかないよ。だから、ほら! 遅刻しちゃうよ!」
「あ、ああ……」
 僕は足を踏み出してみた。うん、ちゃんと歩ける。体の機能は、最初のショックからどうにか抜け出したらしい。
 僕は歩き始めた。彼女がついてくるのが、気配でわかる。僕は振り返らないまま、小声で尋ねた。
「きみさ、美春はさ」
「なぁに?」
「その……幽霊とか魔物とか、そういうものじゃあないの?」
「ユーレイ? マモノ?……ああ、うん、違うんじゃないかな。多分、違うよ」
「多分って」
「あ、ほら、向こうにひとがいるよ。あたしを見ることも、あたしの声を聞くこともできないひとが。そういうひとの前で、あたしと話なんかしてると……」
「あ、ああ。そうだね。なにかと勘違いされかねないね」
「だから、ほら! 黙って歩く! 男の子なんでしょ!」
 なぜ男の子であることを今言われなきゃいけないのかわからなかったけれど、ともあれ僕は彼女の勧めに従うことにした。でなければ、独り言を言いながら歩くヤバいやつ、と思われてしまうに違いないのだから。
(でも)
 歩きながら僕は、考えていた。
(幽霊じゃなくて、魔物でもない。それに僕自身の生んだ幻でもないとすれば――いや、その可能性はまだ消えてはいないか――、とにかく害をなす類のものじゃなければ)
 僕は少し息を止めて、背後に注意を向けた。彼女は確かに、まだそこにいるらしい。
(……まあ、後をつけさせていても、そんなに問題があるわけでもないか)
 僕はそう思って、少しだけ安心した。
 彼女の正体は、きっとわかってくるに違いない。そんな気が、その時には、した。
 そして僕は、こんな風にも思っていた。
(けっこう可愛いよな。もし、実は祟る幽霊だったとしても、彼女みたいなタイプ、キライじゃないな)
 そう、声同様、彼女は見た目もとても好ましい感じを備えていたんだ。いや、見た目だけじゃない。雰囲気にも、決して忌まわしいものは備わっていなかった。
 祟られるとしても、まあ、良し。
 そんな風に僕の心を和ませるものを、彼女はもっているらしかった。

(続く)