かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【#2 図書室のこと。】-03

(承前)

 なにはともあれ、彼女は、確かに、いた。
 でも彼女は、どうやら普通の相手じゃなかったらしい。
 それがわかって僕は、でも、なぜか安心した気分になっていた。
 それは、彼女が――というより、得体の知れなかったなにかが、彼女と呼べるらしいものだとわかったせいだろうと思った。
 黒い人影が、ただの人影ではなく、彼女という姿をもっていたということ。それを知ったことは、僕の中ではかなり大きなことだった。それだけで僕は、落ち着いたんだ。
 あれから――彼女が消えるのを見てから後、僕は、いつものように図書室で本を読み、そして何事もなく家まで帰ってきた。彼女はもちろん、現れなかった。
 そしていつも通りに夕食を済ませ、少しテレビを見て、部屋に戻った。部屋で僕は、一応は教科書や参考書を机に載せ、その前に座りながら、ずっと考えていた。
 幽霊の正体見たり枯れ尾花、という句がある。僕は、その句の意味、というより気持ちが、理解できた気がした。
 それと同時に僕は、あらためてことばというものの意味を考えていた。
 ことばというものは、なにかを固定して安心するための道具なんだろうな――そんなことを、僕は考えていたんだ。
 空気の濁った塊が黒い人影になり、それが彼女と呼べるものになる。その都度、僕の中では、その対象への感情が変わっていった。最初は不審、次は恐怖、そしてちょっとした安堵。それは間違いなく、対象に対応することばの性質に従ったものになっていた。
 だから、もしかしたらことばというものは、よくわからないなにかを見極めるためにあるものなのかもしれない。
 たとえば、頭の芯に、カッと燃え上がるような熱いものを感じたとする。後頭部の方には、ジンとした痺れもある。心なしか指先もピリピリするみたいだ。そして、体を大きく動かしたい、激しく暴れたいという衝動が起きる。
 それがなんだかわからなかったら、僕は自分がどうにかなってしまったのに違いないと思うだろう。でもそこで、“それは怒りだ”と見極めることができたなら、その途端に僕は安心するに違いない。
 怒っているのに安心する。変な話だとは思うけれど、でも、ことばというものは、そういう使い途のためにできてきたものなんじゃないかという気が、すごく、した。
 自分がどうにかなってしまったのではないかという気持ちを打ち消し、怒りなら怒りをダイレクトに感じるために、怒りということばが生み出されたんだろう、と。
 ものごとを的確に切り取り、把握するための道具。それを固定し、落ち着かせる道具。
 それがことばというものなんじゃないだろうか。
 そしてそれは、もちろん、自分の内側だけじゃなく、むしろ外のこと――世界、といえるものに対して、より有意義なんじゃないか。
 世界を恐いもの、得体の知れないものではなくすために、ことばはたくさん、辞書を埋め尽くしてなおまだ溢れるほどに、作られてきたんじゃないか。
 ことばで括ることで人間は、世界を支配しようとしてきたんじゃないか。
 そんなことを考えていたから、その晩の受験勉強はいつにも増して進まなかった。
 でも僕はあまり不安にならなかった。一年前なら違うけれど、今は、それを表すためのことばを知っているからだ。
 ダブルバインドと、それによるストレス。あるいは、現実逃避。僕の中で、そして外で起こっているさまざまなことを、僕は名づけることができる。
 名づけたからといってそれが解決することはないけれど、少なくとも名づけた時には、もう僕は恐さを感じない。それは、それだけで僕を充分に安心させてくれることだ。
 もしかしたら彼女は――僕は考えた。
 そんな仕組みに気づきかけていた僕自身が、その仕組みをはっきり自覚するために、僕自身が生み出した幻影なのかもしれない。
 神経が参っているから見た幻ではなく、もう一歩のところで表に出てくることができなかった僕自身の中のものが、待ちきれずにかたちになって現れたものなのかもしれない。
 だとすれば、それは確かに幻影だけれど、まったく存在しないもの、とりとめのない妄想か自分でも気づいていない狂気が生み出したものではないわけだ。
 つまり僕は、正気だ。
 そして僕は、幻影が伝えるべきことを受け取ることができた。だから彼女はもう現れないはずだ。図書室の窓から見える彼女の姿に、怯える必要は、もうないんだ。
 そこまで考えが進んだ時、僕はベッドに入った。そして僕は、すぐ眠りに落ちた。
 ここしばらくの間で、一番落ち着いた眠りだった。途中で目覚めることもなく、目覚まし時計が鳴り出すまで一直線の、とても心地よい眠りだった。
 でも。
 翌朝僕は、正味途方に暮れた。
 目を醒まし、制服に着替えて食事を済ませ、家を出た。そこまではよかった。なんの問題もなく、昨晩のままのスッキリした気分で、久しぶりにうきうきと外へ出たんだ。
 ところが――いた。
 彼女が、いたんだ。門の前に。僕を待ち構えているように。
 冗談だろ、と思った。彼女は、僕の中の必要性が生み出した幻のはずじゃないか。もう用事が済んだんだから、今さら現れる必要なんかないじゃないか。
 しかもその日の彼女は、最初から例の空気を――澱んだ黒い空気を、まとってはいなかった。ポニーテール、アースカラーのだふっとしたコート、ぴったり脚に貼りついたズボン、そして首もとにはワインカラーのスカーフ。
 僕の家の門からほんの数歩先の路上に、彼女は、昨日の服装のまま立っていた。
 その視線が真っ直ぐ僕に向いているのは、彼女をよく見なくてもわかった。でも今度は、僕の方が彼女の視線に怯えていた。おどおどしていた。
 いったい何者なんだ。いや、何者であるかなんてことはもう問題じゃない。なぜまだ現れるのか。そっちの方が問題だ。
 となると、昨日の僕の考えは、間違っていたんだろうか……僕は考えた。いや、そんなはずはない。そんなことであってほしくはない。だって、昨日の考えが間違っていたとしたら、僕は狂気に取り憑かれていることになる。それは勘弁してほしい。
 いや待て。彼女が僕の潜在意識が生み出したメッセンジャーであるのなら、僕自身がまだそのメッセージを受け取っていないという可能性もあるぞ。うん、そうだ。彼女は必ずしも僕の狂気の産物とは限らない。まだ僕の考えが足りないのかもしれない。
 それにしても、でも。
 今、彼女と関わり合いになるのは、どうも好ましいことじゃないような気がする。そうだ、それになにより僕は、これから学校へ行かなきゃならない。それがまず第一だ。
 僕は彼女と視線を合わせず、そこにはなんにもないつもりになって、歩き始めた。こういう時は、視線を合わせたら終わりだ。無視。無視。徹底的に。いや、無視するもなにも、そもそも彼女は、存在しないもののはずなんだ。僕の幻。ただの幻。
「んー」
 背後からそんな声が聞こえて、僕はビクッと体を竦ませた。
 それは明らかに、彼女が発した声に違いなかったからだ。

(続く)