かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【#3 美春のこと。】-02

(承前)

(でも……本当は、誰なんだろう。僕にとって大事なはずの、誰がいったい?)
 考えれば考えるほど、気分が滅入ってくる。
 顔をあげてみると、美春がまだ道に立っていた。
 でもその顔を見た時、僕はどきりとした。
 暗く沈んでいる。さっきの比じゃない。こんな顔の美春は、初めて見る。
 僕は、周囲のこともかまわず、はっきりした声で美春に尋ねていた。
「美春! どうしたんだ? なんかおまえ、元気ないよ。なさ過ぎ! なにかあった?」
 美春は俯けていた顔を持ち上げて、僕を見た。やっぱり表情が暗い。
「……今、感じた? 感じたんだよね、マサフミは感じたんでしょ」
 言われて僕は、驚いた。
 美春は……知っている。
 僕があの感じを覚えることを。そして、あの感じが存在するということを。
「……美春……おまえ、知ってるのか?」
 美春はこっくり頷いた。
「じゃあ……じゃあ美春、今の感じが誰のだか、わかる? 無くなったものはなにか、美春にはわかる?」
 美春は今度は、首を横に振った。
「あたしの担当じゃないから。っていうより、それの担当って、まだいないから」
「担当って、なんだよ? そういえば前にも言ってたな。あたしの担当じゃない、って」
「うん。ただ……それがあたしの仕事でもある」
「どういうこと!?」
「……でもあたしは、それを言う担当じゃないから。わからない」
 僕は無性に苛立った。美春はなにかを知ってる、それはまちがいない。もしかしたら、誰かとともに消えるアレのことも、ちゃんと知ってるのかもしれない。
「……学校、休む」
 僕は美春に行って、再び家に戻った。
 誰か、近しいひとが亡くなった。それだけはまちがいない。だとしたら、学校へ行っても呼び戻されるかもしれない。それなら、最初から行かなければいい。
「あ、でも……」
 美春が僕を呼び止めようとした。
「なんだよ!」
 振り返りざまに思わずキツい声を出してしまって、僕は、しまったと思った。
 美春が、きゅん、と竦んだからだ。
 とても悲しそうな顔をしていた。
 竦み方は、僕が美春に初めて気づいた時とよく似ていた。けれど顔の方は、かつて見たことがないぐらいに悲しそうだった。
「ご、ごめん。ちょっと気が立って」
 僕があわてて話しかけた時、美春は急になにかを虚空に見つけたような目になった。
 僕の背後、いや、そのずっと上の方……なにかがそこに見えたような顔を、美春はしたんだ。
 僕は無意識に、美春の視線が向いている方向へ振り返った。けれどそこには、なにも見えなかった。
「いったいどうした……」
 言いながら美春を見ようとして、僕はまたびっくりした。美春がいなくなっている。
 消えてしまった。
(じゃあ……じゃあ、まさか、さっきの感じは美春の?)
 そんなことを一瞬思って、でも僕はあわててそれを打ち消した。
 あり得ない、ありっこない。確かに美春は僕にとって今とても近しい存在だ。けれど、美春はちゃんといた。あの感じがした時、なにかが無くなった感じがあった時に、美春はちゃんと存在していた。だからあれは、美春ではあり得ない。
 でも……。
(それなら、なんで今、美春は消えた? なにかに驚いたような顔をしていた。なにに驚いていたんだ? 美春は……美春は)
 僕は、頭の中がいきなり飽和状態になるほどいろいろなことで満たされた気がして、ちょっと目眩を感じた。
 とにかく、休もう。今日は、休んでしまおう。なにがあったのか、はっきりするまで。
 僕はそして、ふらふらと玄関に戻った。


 その日一日、僕はベッドに横になっていた。
 といっても、本当にからだの調子が悪いわけでもない。そういう状態でずっと横になり続けることは、けっこう苦行っぽいことらしいと初めて気がついた。
 それに、本が読めないのも痛かった。別に、家に一冊も本がないわけじゃないけれど、家にあるおもしろそうな本は、だいたい読み尽くしている。そして、繰り返し読みたいと思うような本は、今のところ、家にはない。
 かといって、学校を休んだ身で本屋へ行くわけにもいかない。僕にだって、それぐらいの分別というものはある。
 ナカニシ式――黒い紙に黒い文字を書く――を何度かやってみたけれど、あれはどうも積極的な暇つぶしにはならないみたいだ。それならと考え事に入り込んでみようとしたけれど、気持ちが落ち着かないからか、集中できなかった。
 気持ちが落ち着かない……そう、それが一番の問題だったかもしれない。
 誰かが亡くなり、なにかが無くなった。久々に訪れたその感覚。いったい誰が亡くなったんだろう。それが気になった。
 気になるけれど、見当がつかない。でも、早くはっきりさせたい。かといって、“お宅でどなたか亡くなりませんでしたか?”なんて電話しまくるわけにもいかない。どこかから連絡が入ってこないことには、どうしようもない。つまり、待ちの姿勢を維持しなきゃならないということだ。
 それに、美春のことも、かなり気になっていた。
 あの後美春は、気配すら感じさせてくれなかった。ちょうど、誰かとともに無くなってしまった後のアレが、記憶を辿ってもまるで見当がつかない、想像もできないのにも似て、美春の気配が、まったく僕の感覚の範囲から消えてしまっていた。
 いったい美春は、あの時なにを感じていたんだろう。美春はアレのことを知っていた、なぜ知っていたんだろう。それが美春の“仕事”だと言っていた、それはいったいどんな仕事なんだろう。そして……、
(美春はそもそも、何者だったんだ?)
 僕は改めて、その疑問に突き当たっていた。
 けれど、それらのことは、考えても考えてもわかるものじゃない。考えるにも、とにかく材料が少なすぎる。
 半月もいっしょにいたのに、僕は美春のことを知らない。美春がそれを教えてくれなかった――というより、美春自身が知らなかった――からでもあるし、僕が知ることを放棄してしまったからでもある。いずれにしても、材料が足らないということ。それだけは、確かだ。
 材料の足らない状態で考え事を始めても、すぐ堂々巡りになる。そして堂々巡りは、気を苛立たせる。落ち着かない気分が、いっそう煽られてしまう。とにかく待ちの姿勢を維持しなきゃならない時には、むしろ邪魔っけなものだ。
 悶々と……そう、悶々と、僕の一日は過ぎていった。
 待つこと、我慢することに消耗してしまって、むしろ夕方になった頃の方が、病人じみていたほどだ。夕食のためにリビング−ダイニングに降りた時、母親が真顔で「あしたは病院に行ってみる?」と言い出したぐらいだ。食後に鏡を覗き込んでみたら、なるほど、やつれた顔になっていた。
 ただ、その時間になって、ひとつだけはっきりしたことがある。
 それは、ごく近しい身内に亡くなったひとはいないらしい、ということだ。
 僕が感じたのは、朝だ。それから十時間以上が過ぎた。もし近しい身内が亡くなっていたのなら、いくらなんでもそれだけの間音沙汰なしということはないだろう。
 誰かが亡くなったことは、間違いない。けれどそれはどうやら、身内じゃなかったらしい。そう思うと、僕は少しだけ安心することができた。
 けれど、夜になり、普通に眠る時刻になっても、まだ美春は気配を感じさせなかった。
 まさか本当に、今日のアレは美春だったんじゃないか。
 僕はそんな気がし始めていた。
 美春は、普通の存在じゃない。だとしたら、僕がアレの喪失を感じるのと、美春自身の消滅にズレがあっても不思議はないかもしれない。
 もし美春だったら、どうしよう……。
 そこまで考えた時、僕は、やっと気づいた。
 僕は美春のことが、とても気に入っている。僕は多分、美春が好きだ。
 確かに僕は、最初から美春を気に入っていた。魔性だったとして祟られてもよし、とまで思ったのだから。
 けれどその時の感情は、決して深いものではなかった。ごく浅い部分の、単純な印象に過ぎなかった。
 でも今の感情は、違う。もっと深い部分で僕は、美春を好きになっている。
 だから、美春が失われたんじゃないかと思うと、こんなに不安になるのだ。
 もし本当に美春が失われてしまっていたのだったら……そう思うと、胸の中にどうにも収まりの悪いものが生まれた。受験勉強と読書に挟まれた時の居心地悪さを、何十倍にも膨らませたようなもの。どろどろ、うずうずとして、捉えようのない気持ち悪いもの。
 僕はそれをどう呼べばいいのだろう。悲しみか。怒りか。わからない。少なくとも今の僕の語彙には、それを表せることばはまだなかった。
 それだけ僕は、美春を大切なものと思っていたのか……。
「ちくしょうめ。遅いぜ、僕は!」
 声に出して、僕は自分を罵った。
 その晩の寝つきは、さすがに悪かった。からだが疲れていないのだし、気分は昂ってもいる。素直に眠れるわけがない。
 けれどそれでも、長くベッドの中を転がり続け、枕を何度もひっくり返すうちに、僕はどうにか眠っていたらしい。
 記憶がいつの間にか途切れて、次に気づいた時には朝が来ていた。

(続く)