かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【#3 美春のこと。】-01

(承前)

「忘れ物ない?」
「ないよ」
「ちゃんと生徒手帳持った?」
「いつも制服の内ポケットに入れてるから、忘れっこない」
「シャーペンの芯、ちゃんと補充した?」
「してるってば。うっさいなぁもう」
 僕は少しうんざりしながら、でもなんとなくいい気分で、そんな受け答えをしていた。
 相手はもちろん、美春だ。
 同じことを母さんに言われたら、イライラする。でも美春に言われる分には、あまり腹も立たない。いやそれどころか、少し嬉しくなったりすることもある。不思議なもんだなあ、と思う。相手によって、同じことばでもずいぶん聞こえ方が違うんだなあ、と。
 あれ以来――美春が僕とずっといっしょに過ごすようになって以来、もう半月以上が過ぎている。
 十一月の半ばにもなった最近じゃ、風は相当に冷たい。制服の下には、薄手のベストを着るようになった。ウチの学校では、制服の上になにかを着ることが禁じられているからだ。コートの一枚も認めてもらえたら、かなり楽なのに。
 でも美春は、相変わらずあの格好のままだ。脚にぴったりつくズボンと薄いコート、そしてワインカラーのスカーフ。コートの内側には、少しゆったりめのニットのような服を着ていた。部屋の中でも外でも、同じだ。
 それはあんまりバランスのいい取り合わせじゃあないと思うけれど、不思議と美春には似合っていると思えた。とても可愛いと思う。それに僕個人としては、あんまりけばけばしい格好よりも、美春みたいに少し地味な服装の方が好みだ。ただ、ワインカラーのスカーフだけはちょっと、と思う。全体の色調から、そこだけが浮いて見える。
「……なに見てるの?」
 美春に言われて、僕は少しドキリとした。今、美春が可愛いと思っていた……なんて、そんなことを言い出す勇気は、僕には、ない。
「ん……いや、その。なんでもないよ」
 僕がことばを濁すと、美春は「ふぅん」と妙な声を出し、そして言った。
「じゃ、学校へ行こうか!」
 そして美春は、さっさと部屋を出ていった。といっても、ドアを開けて廊下に出て……という段取りは踏まない。壁に向かって突き進み、そのままつるっと消えてしまう。
 美春のそんな振る舞いにも、ずいぶん慣れた。いや、美春自身に慣れた。
 僕たちは実際、かなりうまくやっていた。
 美春は約束通り、僕のごくプライベートな場面ではいつも姿を消してくれた。その間、どこでなにをしているかはわからないけれど、とにかく消えてくれる。そして、適当な頃合いに姿を現す。時々は、僕のプライバシーに関わる場面でなくとも、姿を消すことがある。多分、彼女の側の事情によるんだろう。
 いっしょにいる時も、美春は僕にべったりとくっついているわけじゃないし、常に僕を見ているわけでもなかった。部屋の隅にちょこんと座っていたり、窓から外を眺めていたりする。とにかく僕の近くにいることが、彼女の第一の勤めであるらしい。
 彼女がいったい何者なのか、彼女の勤めの意味は何なのか、そして彼女にそれを命じたのは誰なのか。――そういったことは、相変わらずなにひとつわからなかった。けれど、それでもそれなりに、僕と美春のあり方は、落ち着いていた。
 ひとつには僕が、これはこういうことなんだ、と認めたせいがあるかもしれない。
 美春が僕の近くに居座り始めてから、数日間は落ち着かなかった。その事態を、まったく理解できなかったからだ。けれどある時、ふと思いついた。理解する必要があるのか、と。これは別に、理解しなきゃならないことじゃないんじゃないか、と。
 考えてみれば世の中には、理解できなくても困らないことが、いくらでもある。水の中に入れば、自然とからだは浮く。もちろん、今の僕はそれが比重の問題だってことは知ってる。けれど、そんなことを知らなくても、僕は泳げる。また、僕は知らない間に呼吸をしているけれど、その意味とか必要性、原理を知らなくても、困ったことはない。
 美春も、同じようなものなんじゃないか。ある時僕は、急にそう思ったんだ。
 もし美春が生身の、本物の女の子だったら、いろいろと困る。でも美春は、食べ物が必要なわけじゃないし、眠る場所が必要なわけでもない。むしろ、鉢植えの花を育てる方が、よっぽど面倒だ。
 なら、この事態を認めてしまえばいいじゃないか。それで十分だ。
 そう思った時から僕にとって、美春は特別でもなんでもないものになった。確かに、僕にしか見えないとか、実体がなくて壁だろうがなんだろうが自在に突き抜けるとか、わけのわからないことはいっぱいある。けれど、そういうことが僕を困らせたことはない。強いていうなら、誰かがいる時にうっかり美春に話しかけて、その誰かに変な目で見られることぐらいが、僕にとっての困った問題だ。でもそれは、美春が悪いわけじゃない。
 美春に比べたら、車の排気ガスの方がよっぽど危険だよ。僕はそんな風に思うことにした。動いて、話もできるポスターだと思っていればいい。そう考えるようになってから、僕たちはうまく回り始めたんだ。
 美春は最近では、すっかり僕の毎日のパターンを憶えた。おかげで、登校前のやりとりも出てきたわけだけれど、それはそれでいい。別に僕は、困らない。
 図書室通いも、美春の“置き場所”がわかった日から再開した。それまではどうにも落ち着かず、僕としたことが一週間近くも図書室へ行かなかったのだけれど、これだけ無害だとわかれば問題ない。
 放課後久しぶりに図書室に入った時、あの女子――上級生の女子が、相変わらず同じ場所で本を読んでいるのを見た時には、なんだかすごく懐かしい気がした。向こうも僕に気づいたらしい。なんとなく目が合った時、彼女はこっくりと頷いてくれた。
 あ、嫌われてなかったんだ……そう思った時、ちょっと嬉しかった。
 美春はといえば、その時も僕についてきていたけれど、僕が本を読み始めたら、どこかへ消えてしまった。多分、僕にはわからない場所から僕を見ていたんだろうけれど、それでも美春が姿を隠してくれたことは、僕にはけっこうありがたかった。
 もともとそんなに、集中力がある方でもない。だから、そばに美春の気配があったら、気が散って本をまともに読めないだろう。そう思っていたから、とりあえず図書室にいる時だけでも自主的にどこかへ行ってくれたらいいんだけどな、と思っていた。それを言わなくてもわかり、叶えてくれた美春は、意外にいいヤツなんだな、と思った。
 家を出ると、美春がいつも通り前の道で待っていた。僕はふと、壁からにゅーっと現れてふわりと道に着地する美春の姿を思い描いた。それは気味が悪いといえば気味が悪い光景なのだろうけれど、その時にはむしろ、微笑ましい光景のように思えた。
「どうしたの?」
 美春が尋ねてくる。
「え? なにが」
「今、笑ってた」
 どうやら僕は、自分の想像に知らないうち笑顔になっていたらしい。
 ちょっと照れくさくなって、僕はつっけんどんに答えた。
「なんでもないよ」
「そう? あ、今度は急に怖い顔になってるよ」
「なんでもないってば」
「……ほんと?」
 美春が近づいてきて、僕の顔をじっと見る。そういえば美春は、僕より少し小さい。だからこうして顔を覗き込む時には、僕を見上げる姿勢になる。
 その姿や表情は、ちょっと胸にぐっとくるぐらい愛らしい。
「……ほんと。なんでもないよ」
 そう答えて僕は、さっさと歩き始めた。
 後ろから美春がついてくる気配がする。その気配が、普段と違うような気がした。少し元気がないような、そんな感じなのだ。
 僕は今し方の自分の態度を、さっそく反省し始めていた。少し慰めてやろうか、そう思って僕は立ち止まり、振り向いた。
 美春は俯いている。ああ、やっぱり……そう思いながら僕が声をかけようとした時だ。
「あ」
 僕は、しばらく忘れていた感覚に襲われて、思わずうめき声を漏らしていた。
 なにかが……今、なにかが、消えた。
 アレだ。アレの感覚。なにが消えたのかはわからないけれど、なにかが消えた感覚。またひとつ、この世界から“感じ”がなくなった。
 誰だろう。誰が亡くなったんだろう。なにが無くなったんだろう。僕は、立ちくらみにも似た浮遊感を覚えながら、あわてて自分の頭の中に検索をかけていた。
 今までのところ僕は、それなり以上に関係の濃い相手が亡くなった時にしか、あの感じを味わってはいない。ということは、この感じがあった以上、誰か親しい相手が亡くなってるんだ。今、それに相当する相手は、どれぐらいいる? 母さん? 父さん? 叔父さんか、それとも……。
(まずは身近なところから確かめる!)
 僕は決めて、家に戻った。父さんはまだ出勤前だったし、当然母さんも家にいる。
 玄関に飛び込み、大声を出した。
「父さん! 母さん!?」
 玄関ホールの扉が開き、リビング−ダイニングから母さんが顔を出した。
「どうしたの昌史。そんな大声を出して」
 のんびりした顔だ。向こうには、トーストを食べている父さんの姿が見える。
 どうやらふたりとも、無事らしい。
「……あ、いや……。なんでもない。忘れ物したかと思ったけど、ポケットに入ってた」
 僕は苦しいいいわけをした。母さんは、あきれた、という顔になって言った。
「あら、そう。じゃあいってらっしゃい。遅刻しないでね」
 リビング−ダイニングの扉が閉じる。僕はとりあえず少し安心して、外へ出た。

(続く)