かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【#3 美春のこと。】-03

(承前)

 さすがに二日連続でズル休みというわけにはいかないし、それにもう学校へ行かない理由はない。翌日僕は、普通に制服に着替え、普通に食事をして、家を出た。
 その時に感じた気分。それを表すことばも、ぼくはまだ知らなかった。
「……美春!」
 思わず声に出した後、僕は全身の力が抜けてしまうような感覚を覚えた。
 いたのだ。美春が。家の前に。
 いつも通りの姿で、コートのポケットに両手を突っ込み、少しだけ首をかしげて、美春は立っていた。何事もなかったかのように、頬にはうっすらと笑みさえ浮かべて。
「おはよ」
 美春が言う。僕はあれこれ尋ねたい気持ちをぐっと抑えて、言った。
「うん。おはよう」
 なにはともあれ、美春がいる。美春は消えていない、失われていない。それが僕を、とても安心させた。ゆうべあれこれ思い悩んだことが、馬鹿みたいに思えた。そして、胸を満たしていた異様な感触――名前も知らないイヤな感触が、ウソのように消えた。
 学校への道をいつものように歩きながら、僕は改めて考えていた。
 じゃあ、昨日の朝のあの感じ、アレが失われた感じはなんだったんだろう、と。
 身内じゃない。美春でもない。だとすると誰だ。学校のクラスの誰かだったとしたら、やっぱり昨日のうちになにか連絡があったはずだ。すると、誰が……?
(それとも、錯覚だったんだろうか)
 そう考えれば、一番筋が通る。けれど僕にとって、あの感覚は、間違えようもなくはっきり感じられるものなのだ。錯覚と思いたいけれど、錯覚ではあり得ない。
 僕はそして学校へ辿り着き、クラスの仲間がひとりも欠けていないことを確かめ、その仲間たちに昨日はどうしたのかと訊かれたり大したことないさと答えたりしながら、一日を過ごした。美春はその間もずっと、僕に見える範囲にいた。
 不安が解消した後の安心というものは、どうも大きなものらしい。不安で沈んだ分、その後の安心は反動めいて高く盛り上がり、高揚にまで届いた。
 僕は放課後には、すっかりいつも通りに、いや、いつも以上に晴々とした気分になっていた。誰も欠けていない。みんな揃ってる。先生だってちゃんといた。大丈夫だ。
 そうなると、昨日一日離れていた読書が、とても懐かしい。僕は迷わず図書室へ向かった。そして図書室の入り口に立った途端、僕はようやく、それも激しく、気づいた。
(まさか……!?)
 僕は恐る恐る、図書室のドアを開けた。
 図書室の真ん中辺りを見る。
 彼女が、いなかった。
 彼女だったんだ。彼女が失われていた。
「な……」
 僕は声を漏らしていた。
「なぜ、なんだって気づかなかったんだ? 気づくどころか、思い出しもしなかったなんて……。僕の、僕の薄情者め!」
 僕は図書室の入り口に突っ立ったまま呟き、誰も座っていない彼女のいつもの席を、ただじっと見つめていた。


「美春はさ」
 家に戻り、部屋に入って、僕は尋ねた。
 美春はあの後も、ずっと僕のそばにいる。彼女はそれが自分の仕事だと言っていた。それをどうやら、忠実に遂行しているらしい。
「昨日、美春はさ。なんで急に消えたの?」
 美春はベッドの上に座っている。クッションがまるで沈んでいないのは、いつもの通りだ。美春に実体がないということの証のようなもの。最初は違和感があったけれど、今ではもう全然不思議に思わない。
「昨日? ちょっと用事があって、呼ばれて」
「用事って、どんなことなの? 俺にはわからないようなこと?」
「うん。あたしたちのことは、普通、誰にもわかっていて、誰にもわからないから。本当は、マサフミにあたしが見えることの方が変なのよ。だから、あたしの用事も、マサフミにはわからないのが当然」
 美春はあっさりと答えた。
 その答えはもちろん僕の望んだようなものではなかったけれど、かといって僕をがっかりさせ過ぎるほどのものでもなかった。
 その時僕は、改めて美春のことが知りたくなっていた。
 昨日みたいな不安を感じるのは、もうイヤだと思ったからでもある。また、失われてしまった図書室の女子――実際に三年生だったそうだ、司書の先生に訊いてわかった――について全然知らなかったことを、とても後悔したせいでもある。
 別に、知っていたらどうにかなったのかといえば、どうなるものでもない。どうなるものでもないけれど、詳しいことを知らないまま、でも存在だけは知っているという状態の不安定さが、とてもイヤになったのだ。
 それの存在を知っていても、それの意味とか理由、ディティールを知らなかったら、知っていることにならないじゃないか――そんなことを僕は、改めて思った。だいたい、図書室の彼女のことをよく知らなかったからこそ、昨日の僕には、彼女のことが思い浮かばなかったのだ。
 そしてなにより、彼女を知らなければ、彼女が失われてしまった後、彼女を思うことができない。彼女を思い出し、懐かしむことができない。冥福とやらを祈ることもできないのだ。(もっとも僕は、冥土の存在なんか信じてはいないけれど)
 彼女が失われたことを悲しく思ったとしても、彼女をよく知らない僕には、その悲しみの焦点を見出すことができない。どう悲しめばいいのかが、わからないのだった。
 だから、知りたい。知らなきゃならない――美春のことは。
 少なくとも美春に対しては、図書室の彼女について感じたような僕自身の無力さ、不甲斐なさ、無意味さを感じたくない。
 美春を、僕の中で確かなものにしたい。
 そんな気持ちが、今さらのように僕の中に生まれたのだった。
 美春は相変わらず膝を抱えて座り込んだまま、僕を見るともなく見ている。
 僕はひとつ咳払いをしてから、再び問いかけた。
「で、美春は呼ばれたって、いったい誰に呼ばれたんだよ」
「あたしの仲間」
「美春には、仲間がいるんだ?」
「いるよ、そりゃ。いっぱいね。とっても、いっぱい」
「じゃあ……美春って、美春の仲間って、どんなものなの? 幽霊とか魔物じゃない、って言ってたよね。じゃあ、なんなの?」
「前にあたし、それに答える担当じゃない、って言ったはずだけど」
「担当じゃなくたって、いいじゃないか。僕は今、美春のことがすごく知りたいんだよ。美春を僕の中で、もっと確かなものにしたいんだ」
「知れば確かになるの?」
「うん、きっと。知らないよりも、ずっと確かになる」
「そうか……そうだね。ひとって、そういうものかもしれない。知ることで、それを確かにするんだよね」
 美春は言って、瞼を閉じた。そして少し俯き、ぼそぼそと口の中でなにかを呟いていた。僕にはそれは聞き取れなかったけれど、どうも誰かと会話しているような感じだった。
 やがて美春が顔をあげ、僕に向かって言った。
「……そろそろ、知らせてもいい頃合いだって言ってる。でも、それはやっぱりあたしの担当じゃないみたい。だからあした、来るって」
「来る? 誰が?」
「担当者。あたしもまだ会ったことないけど、あたしよりは間違いなく正しくマサフミに伝えてくれるよ。だから、あしたまで待ってくれる?」
「いいけど……いいけど、どうして? 美春のことなんだろ? 美春が言っちゃいけないのかよ。自分のことなのに」
「自分……。自分のことは、もうちゃんとしてるもの。あたしにはそれ以外、ない。できないとかいうより、そもそもあたしには、それ以外のことはないの」
「どういうことだよ」
「だからあしたまで待って。そうしたらきっと、マサフミもわかるから」
 僕はため息をついた。美春とその仲間、あるいは美春が所属する組織のようなものは、だいぶ厳しい戒律を備えたものであるらしい。担当する仕事以外は、ノータッチ。それを厳守することが、美春たちのルールなのだろう。
「……わかった。待つよ。あしただね?」
「うん。時間は遅くなるかもしれないけど、でも確かにあしただから」
 僕は頷き、そしてもうひとつの大切なことを訊いた。
「で……美春はさ」
「なぁに?」
「あしたまでに……いや、その後も、昨日みたいに消えたりはしない?」
 美春はきょとんとしていた。
「いや、だからさ……。美春が、僕の前から突然いなくなっちゃったりしないか、って。ちゃんと僕の見える範囲にいるのか、って」
 美春は相変わらず、僕の質問の意味がわからないという表情のまま、言った。
「いなくなったら、駄目なの? 今までだって、けっこうあたし、マサフミの見えないところに移動したりしてたじゃない。マサフミだって、移動してくれって言ってたし」
「いや、そういうことじゃないんだ。美春が僕の、えーと……全然手の届かないところっていうのかな……うーん……その……」
 美春は僕の顔をまじまじと見ている。僕にはそれがとても気恥ずかしく思えて、その先のことがとても言い出しにくかった。
(でも)
 僕は自分を励ました。
(言わなかったら、あり得るじゃないか。そしてそれは、避けたいんだろう?)
 そう、それは避けたい。美春が、自分にとって意味もわからず、なんの前触れもなく失われてしまうことは、避けたい。
 美春はいつか、姿を消すだろう。それは止められない。僕にはそれが、もう間違いのない事実のように思えていた。
 けれど僕は、その前に知りたい。せめて美春が何者で、なぜここにいて、そしてなぜ去るのかを。そしてできれば、いつ去るのかを。
 いるならいるで、その理由を。去るなら去るで、その理由を――知りたい。教えてほしい。急に放り出されるのは、もうイヤだ。
「だから……」
 僕は深呼吸して、言った。
「僕は美春を、失いたくない。だから……」
 美春はやっぱり“よくわからない”という顔をしたまま、僕のことばを遮った。
「それはあたしには決められないよ。ごめんね、よくわかってあげられなくて。でもね、マサフミ。マサフミがもしもそうだったら、なにもそんなに困った顔することないんだから。あした、担当の話を聞けば、きっとわかるから」
「じゃあ、じゃあさ」
「なに?」
 僕はもう一度、深呼吸した。次に言うことは、もっと恥ずかしいんだ。勢いが要る。
「美春、さ……」
 美春は僕をじっと見ている。
「今晩は、その……。ずっと、見えるところにいてほしい。僕が眠っていても、目を覚ました時、すぐに見えるところに、いてほしい」
 美春の顔が、急に変わった。にっこりとした笑顔に。
「うん、わかった! それなら大丈夫、あたしにもできるよ!」
 僕は美春のそのことばに、心底の安心を感じた。そして同時に、僕自身がそれほどに美春のことを思っているんだとわかって、自分自身が信じられないようにも思った。
 それにしても。
(あした……か。あした、わかるんだ。美春のことが。いや、もしかしたら……)
 アレのことも、わかるのかもしれない。
 誰かが亡くなるとともに無くなるアレ。それがなんであるのか、なぜ僕にはそれがわかるのか。それを教えてもらえるのかもしれない。
 そう思うと、僕は少しは前向きな気分になることができた。
 その晩は、素直に眠りに就くことができた。眠りに就く寸前まで美春は僕の視界から離れることがなかったし、そして眠っている時も、不安を感じることはなかった。
 美春は、いる。ここに確かに、いる。
 そんな気がして、僕はとても落ち着いた気分になることができたのだった。

(続く)