かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【#4 僕のこと。】-01

(承前)

“彼”が現れたのは、夕方になってからのことだった。
 いつものように登校し、授業を受け、放課後には図書室に寄って――そこにはもう上級生の女子の姿はなかったけれど――、少し本を読んだ後に、美春が耳打ちしてきた。
「来たよ、担当さん。今、外で待ってる」
 僕は無言で頷き、読みかけていた本を元の棚に戻しながら、窓の外を見た。
 いる。確かに、いる。
 校門の辺りに、どんよりと黒い空気の澱みがある。美春が初めて現れた時と、同じような感じだ。
(美春は見えるのに、なんでその担当さんとやらは見えないのかな)
 僕は少し不満に思った。僕に見る能力があるのなら、最初から見えてもいいのに。
 それとも美春だけが、僕にとって特別だということなんだろうか?
 手早く荷物をまとめ、美春の後について歩く。そういえば、と僕は思った。美春とはずいぶんいっしょにいるみたいだけれど、僕が美春の後を追うのは、これが初めてだ。
 校門へ向かう。黒い澱みへ、だんだん近づいていく。でも僕は、最初に美春を見つけた時のような恐怖は、もう感じない。
 あれはきっと、悪いものじゃない。僕にはそう思えた。なぜそう思うのか?……それは自分でもわからない。ただ、美春が今の僕にとって、大切な相手であることは確かだ。だから多分美春の仲間も、という単純な連想なんだろう。
 もうすぐ校門。美春は一度僕を振り返り、にっこり笑って頷くと、たたたっと小走りに澱みの方へ近づいていった。
 美春が近づくなり、澱みがふわっと消えた。そしてその中から、ひょろ長い男の姿が現れた。
 長い脚、長い腕。背が高く、180センチ以上もありそうだ。黒いズボンに黒いタートルネックのセーター、もじゃっとした長めの髪。少し猫背なのが気になった。サングラスをかけた無表情な顔は細く長く、色白で、ちょっと不健康にも見える。
 もしも現代の世の中に、大学の研究者とかじゃない哲学者ってものがいるのなら、こんな姿かたちをしているのかもしれない――なんとなくそんな風に思える風貌だった。
 美春がその男と、ふた言み言、話をする。美春は頷き、僕の方へと駆けてくる。
「土手の方で話をしよう、って言ってる」
 僕は頷いた。それが男にも見えたんだろう、男は僕に頷きかけて、ゆっくりとした歩調で進み始めた。
 歩調こそゆっくりだけれど、脚が長いせいか、スピードはやたら早い。まるで地面の上を滑っているように、男はどんどん先へ進んでいく。
 滑るように……いや、滑っているのかもしれないな。僕はふとそう思った。
 だいたい彼らには、実体というものがないんだ。歩くといっても、きっちり地面を踏みしめる必要なんかないはずだ。そういえば美春だって言っていた、かっこうはどうにでもなる、と。それなら、前へ進むのにも“歩く”というかっこうをする必要はないはずだ。
(なのに、なんで歩くのかな)
 そう思ったら、僕はなんとなく笑いたくなった。
 もしかしたらそれは、僕を不安にさせないためのことなのかもしれない。けれどそれでも、歩く必要もないのに歩くという彼らの行為が、おかしくてたまらなかった。
 学校から少し離れたところに、けっこう大きな川が流れている。ずいぶん昔、僕が生まれるより何十年かそれ以上前には、何度も氾濫を起こしたことがある川だそうだ。
 それで川には、大きな河川敷と土手がある。治水工事で人間が作った土手だ。
 僕たちは、そこへ向かっているのだった。
 その土手には、日曜日なんかにはけっこうひとが来る。散歩するひとも多いし、河川敷で野球をするひとたちもいる。
 でも今の季節の今時分には、そうそうひとも出てはいない。なにしろ、吹きっさらしで寒いったらないのだ。こんな時に土手に出てきているのは、元気の余っている小学生か、犬に引っ張られてくる飼い主ぐらいのものだろう。見えない彼らと秘密の会合をするには、けっこうふさわしい場所だ。
 僕たちがそこに着いた頃には、日がもうかなり西に寄ってしまっていた。
 鰯雲が空の半分以上を覆っている。それが橙色の夕日に映えて、すごくきれいだ。
「紹介するわ」
 僕が土手の中腹に腰を下ろすと、美春が言った。
「デンノサン。マサフミにいろんなこと、説明してくれる」
「でんの、さん……田野さん?」
 僕が尋ねた時、男が口を開いた。
「ああ、デンノサンだ」
 自分で自分をさんづけで呼ぶなんて、変わったひとだなあと思ってから、僕は、
(ああ、ひとじゃないのかもな)
 と思い直した。ひとじゃなければ、それぐらいのことはなんでもない。
 そう納得してから僕は、僕自身がだいぶ変わったやつになってしまっているんだな、とも思った。ひとの姿をしているのに、ひとじゃない。そんな相手に対して、慣れてしまっている。これってやっぱり、普通じゃない気がする。
 僕のそんな気持ちにはまるで無頓着に、男は話しかけてきた。
「マサフミというんだね」
 けっこう渋い、いい声だった。おとなの男の声、という感じだ。
「いろいろと考えてるらしいではないか。見たところ若いのに、感心なことだ」
 口調が少し固い。見た目の印象よりも、ずっと年寄りのような感じだ。
 でもそれが、かえってずっしりとした説得力のようなものを感じさせてくれる。なるほど、説明を担当するだけのことはある。
「まあ若いっていうか、まだガキですけど。そんなに考え込んでるわけでもないし、感心されるなんてこともないですよ」
 僕がもごもご呟くと、田野さんは鷹揚に頷いて、僕の右隣に座った。美春は僕の左隣に座る。
 その途端に僕は、あれ、と思った。
 ふたりが両隣に座ったら、当たっていた冷たい風が和らいだように感じられたからだ。
 確かに、両横を挟まれたら、風は当たらなくなるだろう。でもそれは、実体があるものの場合の話だ。彼らには実体がないはず。なのになぜ、風が和らぐんだろう?
 僕のそんな戸惑いにまるで気づきもしないように、田野さんが口を開いた。
「キミはいろいろと知りたいようだね」
 ああ、そうだった。今、僕にとって、一番重要なのはそれだ。確かに風が遮られたことも不思議だけれど、それよりもまずは、美春のことや、その仕事のことを知りたい。僕は頷いて、尋ねた。
「うん。僕、知りたいです。知って、落ち着きたい。わけのわかんないことがいろいろ起きてて、落ち着かないんです」
「ふむ。まあキミは、まだ若いからな。そんな気持ちになるのも当然だ。……では、なにから話そうか。うむ。うむ。とにかくまずは、世界の成り立ちから話さなければならないのだろうな」
 田野さんは、やたらとひとりで納得する癖があるみたいだった。説明するというより、自分自身で確かめているような感じだ。その口調が、僕には心地よかった。決まりきった話を一方的に話を押しつけられるより、なんとなく、いい。
「キミは、この世界がどんなものだと思っているかね」
 田野さんに問われて、僕は正直、困った。問いの中身があんまりにも大きすぎる。
 僕が黙っていると、田野さんはまた頷きながら、話を続けた。
「うむ。問いかけが少し唐突に過ぎた。窮するのも無理はない。……つまり、だ。この世界をこの世界たらしめている要素とはなにか、ということなんだがね」
「要素? それってたとえば、原子とか?」
「ふむ。確かにそういう側面はあるな。ほんの百と幾つかの原子、その組み合わせで世界は成り立っている。もっともその原子も、さらに細かい粒子のたぐいから成り立っているわけだがね。とりあえず、キミの理解は間違っていない。だが、それだけで世界は成立しているものだと思うかね?」
「……え?」
 田野さんは、うむ、とか、いや、とか独り言を言いながら頷き、やがて再び僕に語りかけてきた。
「つまりだ、マサフミ。いったい原子の組み合わせだけで、キミ自身は成り立つものだと思うのかね。なるほど確かに肉体はそれで成立する。肉体が成立するということは、キミの思考を宿している脳細胞、これもまた物理的に成立するということだ。キミの思考は、だから、その脳細胞の中を駆け巡る微弱電流の集積ということになるわけだ」
「……違うんですか?」
「いや、違うわけではない。それはそれで正しい。だが私が問いかけているのは、世界の存在の意味、とでもいった方面のことなのだよ」
「世界の存在の意味……」
「つまり、だ。キミは世界の中の要素のひとつであるわけだが、同時に世界がキミの中の要素のひとつでもある。キミが感じ取っている世界、というより外界は、キミだけのものでしかないのだから」
「………」
「わからないかね。たとえば今、キミが他の誰か、まあたとえばキミの母親と今ここにいて、同じ景色を見ているのだとしよう。ではそれは、まったく同じ景色として、キミとキミの母親に受け止められているだろうか」
「……よくわかりません」
「いいかね。キミの目、つまり景色を受け止めるための道具は、キミの顔についているわけだ。物理的には、同じ空間に複数の物質は存在し得ない。だから、キミの目のある位置には、他の誰かの目は存在し得ない」
「少しわかってきました。僕の目から見える景色は、僕以外の誰にも見ることはできないってことですね」
「然り、然り。物理的には、キミとまったく同じ景色を共有できるものは存在しない。キミが感じ取っている外界はキミだけのもの、唯一のものなのだ。であるゆえに、キミの世界はキミの内側に閉じている。それは理解できるね?」
「なんとなく、わかります」
「だから、もしキミが滅んでしまったなら、それはひとつの世界が滅びてしまったことになる。キミ以外でも同じだ。誰かひとりが滅ぶということは、世界がひとつ消滅することに相当する」
 僕が滅びたら、ひとつの世界が滅びる――。
 田野さんのそのことばには、ものすごいインパクトがあった。けれどそれは、僕にとってまったく意外なことではなかった。なるほど、というか、やっぱり、というか、そういう感触を備えたことばだった。感じてはいたものの説明できなかったこと、それを代弁してもらったような感覚があった。

(続く)