かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【#4 僕のこと。】-02

(承前)

 そうだ。僕はそれを知っていた。誰かが滅びると、世界がひとつ滅びている。
 伯父さんが亡くなった時はどうだったか。
 僕は、それを目指す目指さないは別として、ひとつの成功の例、充実の見本が無くなったと思ったのだ。あの時僕は、それにかなりのショックを感じた。それがなぜショックだったのか、その時にはうまくことばに表せなかったけれど、田野さんのことばを聞いた今ならわかる。
 僕は、伯父さんという世界、他に置き換えられるもののない唯一のものが滅びてしまったことに、ショックを受けたのだ。
 お祖父さんの時には、そういう直接のショックは感じなかった。それは僕に、お祖父さんの世界との接触がさほど多くなく、あまり影響を受けていなかったせいかもしれない。
 ナカニシの時は、伯父さんより明確だ。
 僕はナカニシに、ということはナカニシという世界に、憧れていた。そう、今ならはっきり言える。僕はナカニシに憧れていた。
 それが失われて、僕はナカニシという世界を惜しんだ。そう、あれはナカニシ本人を、というよりは、ナカニシという世界を惜しんだんだ。だからかたちだけでもそれを維持したいと思った。
 けれどそれは、できなかった。ナカニシの世界は、ナカニシだけの世界だったからだ。
(そうか、世界か……)
 僕はことばの力に、改めて驚いていた。
 そうだ。世界。それが一番、しっくりくる。
 そういうことばに置き換えてみたら、途端にそのものごとの僕の中での位置が、ぴたっと決まった。ことばにすることには、これほどの力があったんだ、と思った。
 世界ということばが決まると、次の考えも素直に流れていく。
 ひとりずつが、ひとつずつの世界をもっている。そしてそれは、他の誰のものとも重ならない。それは寂しいことのようにも思えるけれど、でも……。
「だがマサフミ、話はそこで終わらないのだよ」
 田野さんが言う。
「個々にとっての外界がまったく重なり合うことはない。だが個々の世界は互いに深く干渉し合っている。キミの世界はキミの内側に閉じて唯一だが、かといって完全に独立しているというわけではないのだ。他者の世界との関わり合いによって、初めてそれとしての全体像を生ずる」
「それもなんとなくわかります。……ほんの二日前、知り合いというほどの知り合いでもなかったけれど、ひとがひとり、亡くなりました。その時、僕は、僕の中のなにかが無くなるのを感じていました。いや、それは別にそのひとの時だけじゃないんだけど……とにかく、無くなっちゃったんだ、ということを強く感じたんです」
「うむ」
「それで僕の中で、なにかが変わりました。なにが、っていうのははっきりわからないんだけど、無くなっちゃったということは、いつも感じられるんです。自分の肉体の一部が取れていくみたいに」
「うむ、うむ」
「でも、今はなんだか納得しました。彼女が失われたことで、僕は、僕の世界をつくってる要素を無くしちゃったんですよね。図書室で感じていた連帯感は、彼女なしでは成り立たないから……もうあの連帯感は、そのままのかたちでは感じられないから……」
「ん、待ちたまえ」
 田野さんが僕を遮った。少し興奮気味だった僕は、勢いを殺がれた気がして、わずかだけれど苛立った。
「ことはそれほど単純ではないのだよ、マサフミ。個々の内部の印象論、感情論だけの問題ではない。ひとりずつの世界というものは、実はもっとずっと強固な関連性を備えている。それこそ、物理的といってもいいほどにしっかりした関連性をね」
「どういうことですか?」
「つまり、だ。ひとりずつが運営するひとつずつの世界は、それぞれ孤立をしているわけではない。まったく重ならないものではなく、むしろ多くの部分で重なっている」
「……?」
 多くの部分で重なっている? そうだろうか。
 僕はたった今自分が理解したことを否定されたような気がして、いや、田野さん自身がたった今言ったこととまるで矛盾したことを言い出したように思えて、さらに苛立った。
 僕の景色は僕だけのもの、他の誰とも共有できないもの。だとすれば、僕の世界は僕だけのものじゃないのか。誰にも重ならないものじゃないのか。
 そんな僕の苛立ちに気づいているのかいないのか、田野さんはゆっくり話し続けた。
「たとえば、だ。ことばというもの。これはどうかね。考えるということは、ことばという部品を組み立て繋ぎ合わせ、かたちをつくりあげることではないのかね」
「……そういえば、そうです。亡くなった友達も、そう言ってました」
「洞察の深い友人だったのだね。それでだ。同じ部品を組み合わせてつくったものは、それほど極端に違うものになり得るのだろうか」
「……あんまり、ならないかもしれません」
「そもそもに、ことばというもの。それは、事象への共通認識がなければ成立しない。というより、共通認識を固定するためのものがことばだといっていい」
「おっしゃることが、わかりません」
「うむ。もっと砕いて言えば、ことばはまずルールなのだよ。この白い粒を米と名づけ、それを炊いたら飯と呼ぼう。そういう約束事が、つまり、ことばだ」
「はい」
「いろいろなものごとを、多くのひとびととやりとりするために作り出され、細分化された部品と、その集合体。それが、ことばだ。だからそれは、多くのひとびとに内容を伝えられなければ、意味がない。そしてそれが成立しているということは、多くのひとびとがそれぞれに孤立して存在しているのではなく、内容を伝え合える程度に共通した要素から成り立っている、ということの証でもある」
「それは逆なんじゃないですか。ルールとしてつくったことばが、ひとの中に枠をつくってる。だからことばは通じるんだけど、そのおかげでひとはそれぞれ、独立したくても独立することができない。ことばに縛られて、ひとはひとらしさを失っている……」
 田野さんが突然、にやり、と笑った。
 その笑顔には、けれど、笑顔が本来備えているべき温かみが感じられなかった。それで僕は、その笑顔を見た途端、ブルッと震えてしまった。
「聡いねマサフミ。そう、確かにことばによってひとは範囲を狭められている。だがキミは知っているはずだろう? ひとという生き物は、範囲を狭めないと落ち着かない」
「あ……」
「そもそもキミ自身がそうではないか。知りたいと言っていたね。それはつまり、ことばの範囲に収めたいということではないか。キミの論法でいけば、キミは求めるべき自身の独立を自ら拒んでいることになるのだが……」
 どうやら田野さんは、相手のミスに容赦しないタイプらしい。今し方の笑みは、僕の隙を見つけた彼の喜びの表現だったんだろう。これがもし命懸けの論戦みたいなものだったら、今の一発で僕は殺されてしまったのに違いない。
「……まあ、落ち着きたまえ。別にキミを否定しようとしているわけではないんだよ。そう、キミが今言ったことも正しい。ことばによってひとびとは独立を阻まれている。だがひとびとは、代わりにことばでそれぞれの世界の重なりを感じることを可能にした。それは大きな収穫だったはずだ」
 田野さんはそして、再び無表情に戻って話し始めた。
「そしてそれは、必然でもあったのだ」
「え?」
「ひとはそもそも、ことばのやりとり以前の部分で繋がっている。いや、そもそもことば以前の繋がりがあるからこそ、ことばもまた成立し得るのだ」
「……また、わからなくなってきました……」
「たとえば、黒と白。これらが別のものと認識できるからこそ、その区別がことばとして意味を成すのではないかね。そもそも黒と白の区別がつかなければ、黒と白に分ける必要もない。区別がつくということ、それがつまり、ことば以前の繋がりだよ」
 言われて僕は、ああ、と思った。そういえば確かに、その通りだ。それが違うものだという認識があるから、それに合わせた名を、つまりことばを与える必要がある。そしてその“違うものだ”という認識は、誰に教わったわけでもない……気が、する。
「それは人間という生き物の、物理的な成り立ちにも因る。黒と白の差などは、つまり光の有無、すなわち目という物理的な感覚器の能力によってもたらされるものだ。だがひとというものは……というより、個々が備えるひとつずつの世界というものは、そういった物理的な要素によってのみ成立しているわけではない」
 僕は少し目眩を感じていた。今まで漠然と感じていた、けれど整理することができなかったいろいろなことが、田野さんのことばのおかげで、急速にかたちを得ている。
 それはとても快い、それこそ陶酔に失神してしまいそうなほど快いことだった。けれど同時に、恐ろしさも感じさせた。
 僕は、それを知っていいんだろうか。そんな気がしたのだ。
 いつかは多分、誰でもが知ることになるのだろう。けれど僕にとって、それは今、知っていいことなのだろうか。まだ早いんじゃないだろうか、時期が満ちていないんじゃないか。僕にはそれを知る資格のようなものが、あるのだろうか。
 恐い。そう思った。
「マサフミ。わかるかね、ひとはそれぞれ、そもそもに繋がったものなのだ。だが現状では、それが分断された個になっているように見える。実際、個としか言いようのない現象も、多々ある。目から見える景色のようにね。その結果、それぞれが接触する外界はすべて異なるものになり、ゆえに個々が運営する世界もまたすべて異なるもののようになった。だが……」
 僕は首を横に振った。
「待って! 待ってください」
 田野さんが口を噤む。
「ちょっと……恐いんです。そこから先を知ることが、なんだか恐い。今の僕には、少し……いや、少しじゃなく、荷が勝ちすぎてる気がする」
「ふむ」
 田野さんが頷いた。
「荷が勝つ、か。古い言い回しを知っているね。だが確かに、そうなのだろう。それがなぜか、わかるかね?」
「なぜ、って……」
 それは、まだわからない。ただ漠然と、自分がそれを知るには早過ぎる気がしているだけだ。なぜ早過ぎるのか、いつなら適当なのか、その判断はつかない。ただ僕は、本能的に“その先はまだダメだ!”と思っている……感じている。
「それはね、マサフミ。キミが、この一連を頭だけで理解しようとしているからだよ。言い方を変えるなら、ことばだけで整理をつけようとしている」
 田野さんが、淡々と言った。
「でも……ことばで整理をつけることが、知るということなんじゃないんですか?」
「狭義にはそうだ。だが、ことばで表せないものを新たに感得することも、広義には“知る”と表現する」
「それは……けれど、ただの詭弁なんじゃ……」
 再び田野さんが、にーっと笑った。けれど今度の笑みには、ちゃんと温かみがあった。
「然り、然り。どうしてもことばは、不足している。多ければいいというものでもないがね。そう、ことばはまだ不充分なのだ。まだまだ不足だ、淘汰されながら増えていかなければいけない……」
 急に田野さんが立ち上がった。
「いつの間にか、もうこんなに暗い。どうだね、少し出かけてみないかね。いい季節だ、出かけた先にはきっと新たな発見がある」
「出かけるって、どこに?」
「うむ、そうだね。キミは東京タワーというものを知っているね」
「知ってますよ、まがりなりにも都民ですし。世界一の電波塔です。高さは333メートル、建設されたのは昭和33年で、怪獣は必ずそこを目指すといいます」
「怪獣か、なるほど。よろしい、我々もひとつ怪獣とやらになってみようではないか」
「……え? 怪獣になる?」
「なに、冗談というやつだよ。東京タワーへ行ってみよう、と言っているんだ」
 田野さんは言って、また笑った。僕はちょっと驚いていた。田野さんが冗談を言ったということに。いや、僕は田野さんの性格に詳しいわけじゃない。けれど、なぜか田野さんは冗談をいうタイプじゃないと思っていた。
「さあ、行こうじゃないか」
 促され、僕は頷き返して立ち上がった。
 田野さんが急に身近な相手になったような気がしていた。

(続く)