【Ringo the Wight/#1-07】
(承前)
翌朝リクが目を覚ました時には、リンゴーはもう部屋にいなかった。やっぱ逃げたかと思いながら食堂に入ってみると、テーブルの上にメモがある。
手にとって見るとそれは、昨日リンゴーが後生大事に抱きしめていた地図の裏側だった。
『おはよう、我が友リクくん。
俺は今日、とりあえず街全体の様子をざっと見てくる。
上の方もちょっと回るつもりなので、戻るのは夕方過ぎになると思う。
飯は昨日かなり食わせてもらったから、今日はあの半分ぐらいでいいよ。
では、仕事の方、頑張ってくれ。 リンゴー
追伸――枕なんとかならないか』
几帳面な字だ。崩したりせず、一文字一文字を律儀に書いている。どの字もが定規で計ったように同じサイズで、字の間だってきれいに揃っていた。その几帳面さはある意味、気持ち悪くもある。
「ざっと見てくる、っつってもなあ……」
リクはメモをテーブルの上に投げ出して、椅子に座った。
街全体を、といっても、たとえばたかが一ブロックに勘定できる範囲に、ビルがいくつ建っていると思っているのだろう。そしてビルごとに、フロアが三十弱はある。つまり地べたの面積の、ざっと三十倍の広さがこのブロックにはあるのだ。いや、“上”まで含めたら、百倍だ。そしてこの街には、そんなブロックが二十ほどもある。
案内もなしにひとりで歩いても、回れる範囲はたかが知れたものだ。
脚を持ち上げ、かかとをテーブルに乗せて、リクは呟いた。
「……ここがどこだか、わかっちゃいねぇんだな結局」
だいたい、こんな場所に会計事務所の仕事をもらいに来ようなんてやつだ。この街ってものを、まず理解していない。ちょっとでもこの辺の事情を知っていれば、そんな仕事があるわけはないとわかるはずだ。
と、そこまで考えて、リクは“待てよ”と思った。
……リンゴーは、なぜ“上”でなく、こんなとこで仕事を探す気になったんだ? ちゃんと会計事務所に勤められる程度の頭と技術があるなら、なぜ“上”で仕事を探さない?
(よほど使えない奴で、上で失敗を重ねた挙げ句、下に落ちてきたとか……)
これは、あり得る。あの間抜けさでは、まともな事務所ではきっとお荷物扱いだろう。
いや、宿がどうとか言っていたな。街の仕組みを知っている者なら、わざわざ金を払って(結局は払えなかったらしいが)宿に泊まろうとは、考えないはずだ。
とすると、“流れ者”なんだろうか。それなら納得もできなくはない。
流れ者なら、この街の作法にも詳しくはないだろう。また“上”の民は、流れ者には冷淡だ。あるいは“下”の民に対するより、流れ者には警戒心をもっている。だから、たとえ技能があったとしても、“上”での就職は難しい。
流れ者――それは、どこの誰やら見当がつかない者のことだ。
初めからこの星の、特に“上”に生まれ育った者なら、その管理はどのエリアでも統一されたシステムで徹底的におこなわれているという。生まれた時から死ぬまで、どこで暮らしてきたかとか、どんな職歴があるかとかが、すべてしっかり記録されているのだ。だから、たとえ海を隔てた遠い大陸の生まれでも、管理局で数分も待てば照会が済む。
これが“下”の民になると、その情報の精度はだいぶ下がる。中には、生まれた記録がない、死んだ記録がない、という者もある。リクにしても、もしかして両親が面倒がって出生届けを出していなければ、この街では幽霊に近い存在かもしれない(確かめたことはないから、はっきりしたことはわからないが)。
けれどそれでも、どこかしらに――“下”の民であればしばしば司法局の犯歴リストに――存在を証明する記録があるはずだ。そういう記録をもつ者は、たとえ定住する場をもっていなかったとしても、流れ者とはいえない。
つまり、本当にどこの誰やら見当がつかないということは、この星で生まれた者には、事実上あり得ない。だから流れ者といえば、よその星からの流入者、特によその星の下層民ということになる。
今さら、よその星から……?
よその星。話はいろいろ聞いている。
遠く離れた、ヴァージニアエリアと呼ばれる辺り――この星で最も長い歴史をもつ辺りには、他の星々と行き来するための船が出入りする港があるとかいう話だ。
その船をリクは実際に見たことはない。もし見たとしても、乗ることなんかできはしないだろう。よその星どころか、この星の大陸の間を渡る長距離気車に乗る金だって、カツアゲばっかりしてちゃ稼げはしない。
やつは――リンゴーは、そんなものに乗って、よその星からここに来たんだろうか。
「……バカバカしい」
そんなわけないじゃん。だいたい、俺らが一生かかって乗れない外宇宙航路の船に乗ってきたやつが、二日も飯にありつけなかった挙げ句、持っていた鞄を売り払って宿賃に当てたりなんてするもんか。
キッチンに入り、コーヒーを淹れて戻ってくる。その苦さを口の中に啜り込みながら、けれど、なお考えている。
変なやつだよ。どう見たってガキでしかない俺に、正面から“我が友!”なんて言う。
普通、あの齢のやつだったら、俺らのことなんかマトモに相手しない。害獣を見るような目で見て怯えたり、クズだゴミだと罵ってはまとめて“施設”に押し込み要らない矯正とやらを施してくださろうとしたり、あるいはきれいさっぱり無視して行ったりする。
もっともこっちだって、“商売”以外じゃ連中を相手にしてやったりはしない。在り方ってものが違うんだ、そういう連中とは。そう、在り方が、根本的に、違う。
でも……。
リクはそこまで考えて、気づいた。
(……俺、待ってるのか?)
いや、疑問の余地はない。確かに待っている。リンゴーが戻ってくるのを。
戻るというメモがあったといっても、それが本当に戻る気で書かれたものとは限らない。なのにメモがあったという、ただそれだけのことで、待っている。リンゴーを信用してしまっている……。
無性に腹立たしくなってきた。いつの間にかリンゴーに操られている気分だ。
「ああもうっ。やめだ、やめ!」
リクは声に出して叫んだ。
このまま部屋にいても、気分がおかしくなるばかりだ。
壁に掛けた時計を見る。午後二時過ぎといったところだった。まだ早いが、でも、チーム仲間の溜まり場に行けば誰かがいるだろう。“商売”は夕方からの方がいいが、とにかく誰かに会ってリンゴーのことを忘れてしまおう。
それに……。
(エイミもいるかもしれないし)
そう、確かにエイミは素敵だ。はっきりいえば、憧れている。恩人ヴィレンの恋人だ。
ヴィレンは、リクが、家を飛び出したはいいもののどうしたらいいかわからず、ただ街角に座り込んでいた時に、拾ってくれた。そのヴィレンが最初に引き会わせてくれたチームの仲間が、エイミだった。
その時のヴィレンの、少し照れたような紹介を、リクは今でもよく憶えている。
『エイミ、大事なひと。……そう、俺の大事なひと、だ』
俺の大事なひと。そのひとことが、とても羨ましいものに思えた。いつかは自分も言ってみたい、と思った。
エイミが何歳なのかは、知らない。一応リクだって、女性に年齢を訊ねることの失礼ぐらいは、わきまえている。ただ、ヴィレンと同い年か、あるいは少し上なのかもしれないとは思う。だから多分、二十代半ばぐらいだろう。
亜麻色の髪は細く、わずかにうねって長い。首の辺りで括っていることが多いが、リクはどちらかというと、括らずにふわりとひろげている時の方が好きだ。
ふっくらした頬と少し尖った顎は、美、という尺度で計ったら、不釣り合いな組み合わせなのかもしれない。けれどそれが、少女っぽい愛らしさになっている、と思う。
真っ直ぐ横に伸びる、髪より少し濃い色をした眉と、深いブラウンの大きな瞳。
すらりとして細い鼻の右横と、ふくよかでかたちのいい唇の左端には、小さなピアスリング。
エイミはいつも、ヴィレンの少し後ろにひっそりと寄り添っている。
恋人同士とはいえ、ヴィレンにことさらに体をくっつけるでもない。そういえば、手をつないでいる姿さえ見たことがない。多分ふたりは、そういうつきあい方が好きではないのだろう。そしてそういう間合いが、ヴィレンとエイミには相応しい気もする。
その佇まいのせいか、好んで着る服が暗色のゆったりとしたものであるからか、エイミは、ぱっと見た限りほっそりとしている。けれど実は彼女が、けっこうボリュームのある、でも締まるべきところは締まった、つまり男好きのする体の持ち主であることを、リクは知っている。といっても、かつてエイミが気まぐれにタイトな服を着た時の姿が、今も鮮やかに目に焼きついている、というだけのことだが。
チームの仲間には、当然のことながら荒っぽいやつが多い。メンバーの三割強は女だが、その女たちも、ほとんどが荒っぽい部類に入る。そんな中で、エイミだけがいつも優しい雰囲気をまとっていた。ヴィレンの恋人でなければ、あるいはチームにいることさえできないかもしれないほどに、儚げなところがあるのだ。
いや、チーム云々以前に、“下”の民であるということ自体、似合っていない。“上”育ちのお嬢様だといわれたら、なるほど、と思ってしまうだろう。
けれど、だからといって気取ったタイプなのかといえば、そうではないのだ。メンバーの誰が話しかけても、にこやかな笑顔で応える。確かに自分からしゃべりだす方ではないが、だからといって寡黙なわけでもない。
とにかくエイミは、どこをとっても文句のつけどころがない、リクにとっては女神そのものと呼べるひと、なのだった。
そんなエイミと、溜まり場に行けば、会えるかもしれない……。
思って、すぐに打ち消す。
会えたからって、どうするわけにもいかないじゃないか。
ヴィレンに恩を感じているように、エイミにも畏敬の念がある。だからこそ彼女との間には、決して越えてはいけない線がある。たとえヴィレンとエイミの仲が壊れたり、あるいはヴィレンがいなくなったとしても――
「あーっ、駄目だ駄目だ駄目だっ。俺はなに考えてんだ、糞っ垂れ!」
リクは両足のかかとで床を蹴り、ダン! と大きな音を立てた。そして立ち上がり、毒虫ジャケットを羽織って部屋から出ていった。
(続く)