かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【Ringo the Wight/#4-06】

(承前)

「いやはや、まさか」
 階段を駆け上がりながら、切れぎれにリンゴーが言う。
「ボスを始末した、なんて濡れ衣をかぶせられるとは、思ってなかったからなあ。奴らの逆襲の規模ってのを、完っ全に読み間違えた」
 もう何段ほど登っただろう。高さにして三mほどを上るごとに折り返す、幅およそ四mの階段だ。ということは、六m弱を走っては百八十度反転するわけで、四、五度もそれが繰り返されると、脚が疲れるより目が回ってくる。
 追いかけてくる足音は、二十六階で一度止まった後、すぐに再び走りだし始めていた。
 折り返す階段の間には壁があるから、足音は螺旋めいた筒の中を複雑に跳ね回りながら届いてくることになる。その反響に惑わされて、追撃者の正確な数はわからないが、少なく見積もっても十人はいそうだ。
「しかし、なんだね。二十六階から上、ってのは、どうもこう、一階分が、えらく、多いんじゃあ、ないかぁ?」
 次第にリンゴーの息が切れてくる。いや、それはリクもヴィレンも同じだ。普通なら、もう四階どころか、その倍の八階分ぐらいはとっくに上がりきっているはずだ。けれどこの階段には、まだ終わりがみえてこない。
“29”と大書された鉄の扉がある踊り場まで上がった時、リンゴーは立ち止まり、壁にべったり腰をつけて寄り掛かった。脚はガクガクと震え、その震えを押さえつけるように両手が膝に当てられている。口はぱっくり開かれ、肩は息に揺すられている。
「いやあ……年寄りには、つらい……」
 後を追っていたふたりも立ち止まり、リンゴーを挟むようにして立った。どちらも肩で息をしている。
 リンゴーは顔も上げずに――上げられずに、言った。
「このまま、一気に上がることは、無理じゃあないんだが……。そうなると、ちょっと、困ったことに、なりそうだからねえ。……リク、あれから、何分だい?」
 リクはポケットから出したKTのディスプレイを確かめた。
「……たったの十分」
 リンゴーは、ふう、とひと際大きな息をついて、呟いた。
「あと六分……いや、先行した三人の、階段を登る速さを考えると、最低でも十分は、連中をここで足止め、しなきゃ、なんないよなあ」
 リンゴーは周囲を見回した。
「ここ、幅八mに奥行きが四mってとこか。充分とはいえないが、暴れられないことも、ないな。……仕方ない、ここで連中をくい止めるか。これ以上登ったら、疲れちゃって、くい止めるどこじゃ、なくなりそうだし」
 言いながら、往復の階段を隔てる壁に身を寄せ、隠れる。リクとヴィレンも従う。
 足音はもう、すぐ下まで迫ってきていた。ペースはかなり落ちている。連中が何階から走ってきているかはわからないものの、さすがに相当の体力は費やしてきているようだ。
 それでも足音は、ほんのふた呼吸後には、すぐ隣の壁を揺るがせるほどになっていた。
 そして連中が、がばっとリンゴーたちの目前に現れた。
「いたぁ! いやがった!」
 先頭を走ってきていた奴が叫ぶ。が、その声はすっかり枯れていて、迫力がない。
 しかもその風体は、見るからに安っぽかった。リンゴー流に言えば、三下だ。
 リンゴーは無言で、目の前の三下に飛びかかった。あの大きな手ががっちりと握られ、節くれだった関節が真っ直ぐに三下の顔の真ん中に吸い込まれる。
 口の奥で、めり、と嫌な音を鳴らし、三下がすっ飛んだ。そのまま背中から壁にぶち当たり、三下はへなへなと尻餅をついた。白目を剥いている。顎がだらりと下がり、ぱっかり開いた口から覗く歯並びは、少々崩れてしまっている。
「ほー痛ぇ」
 リンゴーが殴った手をぷらぷらと振った。
「余裕ぶっこいてる場合じゃないっすよ!」
 後ろからヴィレンの声がする。振り返りかけたリンゴーの鼻先を、別の三下が力いっぱいに繰り出した拳が、紙一重でかすめていった。
「うひゃあ」
 言いながらリンゴーは、おおげさに背を反らせた。勢い余った三下の上体が泳ぎ、ふらふらとリンゴーの目の前まで流れてくる。
「いらっしゃいませ」
 リンゴーは言ってお辞儀をした。その額がもろに三下のこめかみに入った。思わぬ頭突きに三下がぐらりとふらつく、その隙を逃さずリンゴーの長い脚が振り回される。見事に足払いが決まって三下はつんのめり、顔から壁に突っ込んで、そのままずるずるとくずおれた。
 リクは小さい体格を活かしてすばしっこく立ち回り、着実に成果をあげている。
 とにかく身軽だ。息もすっかり落ちついている。ぶんぶんと振り回される三下の拳をかいくぐっては、細かく拳を繰り出す。一撃ごとの威力はさほどでもないが、ここまでかなりの距離を走ってきた三下には、それでもかなり効く。五発、六発の拳が腹にたたき込まれる頃には、三下は膝をがっくりと床について、それ以上仕掛けてはこなくなる。そういうパターンで、もうふたりほどを片づけている。
 ヴィレンのダイナミックな闘いっぷりは、美しくさえあった。さっきエレベーター前で見せた鋭さをそのままに、一度にふたり、三人と飛びかかってくる三下を鮮やかに捌く。敵の拳や脚を避ける動作と自身の攻撃が、切れ目のないまったくひとつの流れとなって、澱みなく相手を片づけてゆく。
 三人は、ものの数分とかからず第一波をクリアしていた。
「おぉいふたりとも、大丈夫かぁ?」
 リンゴーの声がして、ふたりは顔を上げた。リンゴーは、いつの間にか階段を数段登ったところに座り込み、俯いていた。その左右には三下がふたり、引っ繰り返っている。
「なぁんで、そんなとこで休んでんだよ!」
 リクが憮然と言い放つ。リンゴーは膝の間に頭を埋める恰好で、持ち上げた片手だけを左右に振り、答えた。
「おじさん、もうダメよ。疲れちゃって。やっぱこういうのは苦手だなあ」
 とはいえ、声には全然“駄目”な感じがない。どうやら呼吸も整ってきているようだ。
 顔を上げないまま、目だけをぐりぐりと動かして、リンゴーが勘定する。
「八、九、十……十二人か。どいつもこいつも三下だ。おそらく急を聞いて、よほど慌てて駆けつけてきたんだろう。階段で俺たちより消耗してたらしい。そこらはかなり、幸いだったといえそうだね」
 言ってからリンゴーが、やっと顔を上げた。と、頬に、ごく薄い青の痣ができている。それが見る間にスッと薄らぎ、消えた。
「あー! やられたんだぁ」
 リクが指さして笑う。リンゴーは「ちぇっ、まだ消えてなかったか」と唇をへの字に曲げた。
「でも……」
 ヴィレンがリンゴーに歩み寄りながら言う。
「こいつらも、なんだか歯ごたえがありませんね」
 リンゴーは、うん、と頷いた。
「ねえヴィレン」
「なんです?」
「イダが謀叛を興したとして、だ。たったひとりでそれを思いつき、実行するもんだろうか」
 ヴィレンは、なるほど、という顔になった。
「つまり、本当に使える連中は、とっくにイダが制圧済みだった、と?」
 リンゴーは頷いた。
「まったくやってくれるよ、イダって男は。本当に怖い“プロ”どもはとにかく、下っ端の連中は、本気で俺たちがフジマの旦那を始末したと思ってるんだろうね。これでイダ一派、つまり本当の本職たちが出張ってきてが俺たちを潰せば、イダは、若様の仇討ちとエリア奪取の手柄を独り占めできるってわけだ……」
 言いながらリンゴーが立ち上がった。
「ここでの時間稼ぎは、多分もう充分だろう。次は俺たち自身が逃げなきゃな」
 リンゴーは言い、“29”と書かれたドアに近づいた。ヴィレンが無言でリンゴーに従う。
「え? なぜ? このまま上らないの?」
 リクが訊ねる。リンゴーは首を振り、答えた。
「イダがそういう筋書きを狙っている以上は、俺たちの行動もすっかり読まれてるだろうからね。多分、裏の事情を知ってる主力部隊は、もう直接に“上”へ行ってるだろう。となれば、このまま上ったら俺たち、階段でへろへろになった状態で待ち伏せくらうことになる。わざわざ敵を喜ばせてやることはあるまい?」
「直接に、“上”へ……?」
 それを聞いてリクは急に不安になった。
 確かにどのビルにも“上”への直通エレベーターがある。それはこのビルにも共通だろう。だが、だとしたらクラークとセトは……エイミは、危ない目に遭っているんじゃないか?
 その表情を察して、リンゴーが呟いた。
「大丈夫、時間差もあるし、俺の連絡が必ず役に立ってるはずだ」
 リクは、ああ、と頷いた。頷いてから、尋ねた。
「……でもリンゴー、あの連絡の先は?」
 リンゴーは答えず、扉の奥へと進んでいった。リクは、まただんまりかよ、と思いながら、けれどヴィレンに続いて二十九階への扉をくぐった。

(続く)