かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【Ringo the Wight/#4-07】

(承前)

「わあ……」
 リクは無防備に声を出してしまってから、その反響が意外に大きく膨らんで跳ね回ることに気づき、両手で口を塞いだ。
「なるほどね」
 リンゴーが呟いた。
「これじゃあ一フロア分を昇るのにも時間がかかるわけだ」
 ヴィレンはただ黙って、けれど充分にその驚愕をうかがえる目で、周囲を見回している。
“29”の扉の向こうの景色が、彼らを驚かせていたのだった。
 彼らは今、壁に沿って設えられた足場の上に立っていた。鉄骨の枠の上に厚手の金網を張っただけの、堅牢だが素っ気ない足場だ。一応は周囲に手すりがあり、不慮の転落は起きないようになっているものの、その手すりの向こうには、剥き出しのパイプや巨大な機械が並ぶばかりで、二十九階としての床は、なかった。
 扉のすぐ前には、さすがに相応のスペースが確保されていた。そこから見上げると、ごつごつした構造物の隙間から、かなり高い場所にどうにか天井らしいものが見える。足元の金網のの隙間から下を覗けば、同じような足場がずいぶん下に小さく見えた。あれがきっと、二十八階の出口なのだろう。
 周囲に明かりらしい明かりはなかった。ところどころに足元を照らす薄暗いパネルがあるから、歩くのに不都合はない。とはいえ、そう遠くまでを見渡すことはできない。
 どこからともなく、ごぉん……ごぉん……と、いくつもの機械が作動しているらしい音が響いてくる。耳を聾するような大音響ではなく、呻き声にも似た低く鈍い音だ。その規則正しい音には、なにか機械らしからぬ、奇妙な生々しさがあった。
 リンゴーは頷きながら、言った。
「つまり、ここは……“下”にとっては屋根裏だが“上”にとっては地下室なんだな。“上”を維持するための機関室みたいなものか。ということは、二十六階が“下”の、事実上の最上階だったわけだ。なるほどね」
 リクが振り返り、意外そうな顔をする。
「へぇ、リンゴーにも知らないことがあるんだ」
 リンゴーは顔をしかめ、首を振った。
「そりゃそうさ。だいたい普段は、“上”と“下”を往復するのにだって、専用エレベーターに乗るじゃあないか。階段なんて疲れるばっかりのものは、俺だって使ったことがないよ」
 言いながらリンゴーは、薄暗い吹き抜けを見上げた。
「ここの非常階段ってのを探さなきゃならないな。まさか連中も、こんな場所を俺たちが登ってゆくとは思っていないだろう」
 リクとヴィレンは頷き、周囲を見回す。
「とりあえずは……」
 ヴィレンが言う。
「今立っているこの足場に沿って歩いてみるしか、なさそうですね」
 三人は頷きあい、ほとんど一本道といえるその足場の上を歩き始めた。
 ところどころに、横道がある。けれどもそれは、ここに収められたさまざまな機械やパイプの類を管理するための足場で、出口に繋がっていそうもないものばかりだ。
 大人の腕ほどもの太さがあるワイヤーロープは滑車で吊られ、時おり重苦しい音をめりめりと立てて動く。柱のような鉄柱がどうやらパイプであるらしいと判断できたのは、その壁に中の圧力を示すメーターがついていたからだ。
 いったいなんのためのもので、どんな意味があるのかもわからない無数の機械。けれどそれは、確かに“上”の人々にとっては生命線ともいえる役割を果たしているのだろう。全身からボルトやらパイプ、ケーブルの類を突き出し、奇妙な曲面で構成されたその姿は、機械というよりは生物の内臓や細胞のようにも見えた。
 幅広の足場は、今し方登ってきた階段室と、その向こうのエレベーターを収めていると思しき部屋の壁の周囲を、ぐるりと巡っているだけだった。どうやら、細い横道に入らなければ、上への階段は見つけられないらしい。
 目印になりそうなものはない。無闇に歩き回ってみるしかなさそうだ。
 一周して元の場所に戻ってきた時、リンゴーは後ろのふたりを振り返った。ふたりが頷く。リンゴーは少し歩き、最初の横道に入った。
 狭い道だった。
 幅は大人が三人並んでどうにか通れるかどうかといったところだ。横道となると、頭上一mほどの位置にまでパイプや機械が張り出してきて、上への視界を塞いでいる。それは、どこか艶めかしい無秩序さを備えていて、ここが巨大な生き物の胎内であるかのような感覚を、いっそう強めていた。
「こいつは……」
 リンゴーがぼそりと呟く。
「このビルの……いや、この街の、“心臓”なんだな。そう思ってみると、機械がごろごろ唸る音も、心臓の鼓動に聞こえてくる」
 枝道からさらに、いくつもの枝道があった。リンゴーは、太そうな道を選んでは曲がっていった。けれど一向にゴールは見えてこない。それらしいなにかさえ、見当たらない。
 どうやら、完全に迷ってしまったようだ。
 けれどもリクは、不思議と不安は感じなかった。
 なにかが必ず、リクたちを守ってくれる……いや、今も守られている。そんな感覚があった。
 あるいはそれは、周囲の機械そのものが与える感覚だったのかもしれない。
 確かにここは、この街の“心臓”なのだろう。
 リクたちが暮らしている“下”にも、この手の機械はいくつもある。けれど、これほど密に固まっている場所というのは、初めて見た。ここに比べれば、“下”の機械たちは大雑把で、パワーはありそうだが愚直なだけのものに思えた。おそらく、“下”の機械が生み出した力が、ここで細かく調整され、配分されて、“上”にも供給されているのだろう。
 もちろん、ビルはここひとつではない。ブロックひとつにつき数十のビルが建ち、それ自体が柱となって“上”を支えている。そしてそのひとつひとつが、半ばにこういった機関室……いや“心臓”を備え、そこに住む人々の生活を維持しているわけだ。
“心臓”が、“下”にどれほどの恩恵をもたらしているかは、わからない。あるいはすべて、“上”のための物なのかもしれない。けれど、この機械たちが、ほとんどの人々に知られないまま、その人々の生活を支えていることは、確かだ。
 自分たちは、いや、この街のすべての人々は、生かされているだけなのかもしれない。誰にでもなく、この機械たちに。
(これは確かに、俺たち人間が創ったものでは、あるんだ……でも)
 このビル、いやこの街自体が、すでに人間の手を離れた別の生き物のような気がする。人々の生活を支えるためだけに生まれた、優しい巨大な生き物のような気がする。
 その懐に、今、自分たちは、いる。
 それが安心感の正体なのかもしれない……
「ふぅむ」
 リンゴーの呟き声が、リクを現実に引き戻した。
「かなり歩いたのに壁にさえ当たらないってのは、おそらくビル同士が、この“心臓”スペースで繋がっているからなんだろうな。そして俺たちがさっき見た天井は、つまり、“上”の地面になっていたりもする、ってわけだ」
 ヴィレンがわずかに眉間を険しくする。
「そうですね。ということは、やたらと歩いても出口は見つからないかもしれない」
うーん、と唸って、リンゴーが立ち止まった。
「第三の男、だな。もっともあれは、追われる方が悪党なんだが」
 少しの間リンゴーは、腕組みをして考え込んだ。やがて顔を上げ、「仕方ない」と呟いた。
「一か八か、俺たちのキャラウェイ少佐に……正義の味方に、登場してもらうしかないな。リク、KTを貸してくれ」
 リクは頷き、ポケットから出したKTをリンゴーに手渡した。リンゴーは手早くなにかを打ち込み、送信した。すぐに軽い作動音がして、返信の到着が告げられる。リンゴーはディスプレイに表示された文字を素早く読み取り、KTを自分のポケットに収めた。
「……これで、俺の手札は全部使い切ったようなもんだな。後は、アンタッチャブルが先に来るか、ギャングどもが先になるかの運だ」
 リンゴーはそして、その場に座り込んだ。

「出ました。連中、思いがけない場所にいましたよ。なんと“地面”の真ん中です。どうやら二十九階辺りから機関室に入り込んでいたようです」
 TTA08ビル、二十五階の一室。机上に置かれた何枚ものディスプレイとコントロールパネルの類、壁に寄り掛かって立つ巨大なコンピュータが、この部屋が特別な役目を備えていることを物語っている。
「ほほう。道理で見つからないわけだ。連中もさほど莫迦ではないということか」
 オペレーターの背後に歩み寄りながら、イダが感心したような声を出した。
 服を着替え髪も整え直して、すっかり平生に戻ったイダが、ディスプレイを覗き込んで言う。
「今すぐ動員できる兵隊はどれぐらいいる」
「それが……どういうわけか、街に散っている連中の、半分以上が応答なしです。もっともそれは今に始まったことじゃなく、連中が我々の前に姿を現す少し前から進行していたことなんですが」
 イダは、ふふん、と鼻で笑った。
「そうか。それもまた連中の策のうち、ということか。
 ……いいだろう、キツネは賢く逃げ回ってこそキツネだ。狩り甲斐もある。よし、手勢で向かうことにしよう。その方がどちらかといえば、都合がいい」
 イダはディスプレイの前を離れ、隣室へと繋がる扉を開いた。
 隣室には、暗色の服に身を包んだ十数人の猟犬ヤクザたちが控えていた。それぞれ、椅子に座ったり壁にもたれかかったりしておとなしくしてはいるものの、室内の空気はひどく張り詰めている。迂闊に口をきいたら即座に乱闘が始まりそうなほどの緊張感に、部屋中が満たされているのだ。
「行くぞ。キツネが見つかった」
 全員がザッと音を立てて立ち上がった。
「狭い場所での勝負になるだろう。身軽にして、銃器の類より刃を持って行け」
 イダの命令一下、全員が懐にしていたヒートレイを机に置いた。ごつごつと冷たく硬い音が室内に響くが、誰もひとことも口をきかない。
「来い」
 イダが身を翻し歩き始める。ヤクザたちは無言のまま、イダに従い部屋から出ていった。

(続く)