【パニッシャー】(中編)
(承前)
「でも、さ」
店を出て、何となくその辺を歩きながらボクは、アイツにまた話しかけた。
「ん?」
「やっぱ自分がヘンなんじゃないか、って思うことがあるんだよ」
「何だ。さっきの話の続きか?」
「うん。だってさ、ホントにどうでもいいことなんだ。だから、もしそれがキミの言う通り、普段殺してるものすごい量の感情の帳尻合わせなんだとしても、こんなに腹が立っちゃうのって、ヘンだと思うんだ」
「……こんなに、って、言ったか。今」
「……うん。言った」
アイツはほんの少し首を動かして、左右を視線で探った。今、ボクたちの周りに何があるのか……何が起きてるのかを、探った。
そう、その時ボクは、また腹を立ててた。
見ちゃったからだ。アレを。どうでもいいはずなのに許せないアレを。
ただボクは、ボク自身がどんなことで腹を立てるのか、それをまだアイツに言ってはいなかった。だからアイツは、探さなきゃならなかったんだ。
なぜ言ってなかったのか、って?……決まってるでしょ。恥ずかしいからだよ。
そう、恥ずかしい。自分がそんなことで急に腹を立てるなんて知られることは、ものすごく恥ずかしいことだ。
だって、どう考えたって異常じゃないか。ひとが口を半開きにして歩いてる、そういう姿を見ただけでハラワタが煮えくり返るぐらいアタマにくる、だなんて。
アイツは辺りを探るのをやめた。さすがにアイツでも、ボクが腹を立ててる何かは、見つけ出せなかったみたいだ。
アイツが首をひねって言った。
「……わかんねぇ。悪いけど、ホントにオマエが何にムカついてんのか、わかんねぇ」
ボクは慌てて答えた。
「い、いいんだよ。わかってくれなくても。マジ大したことじゃないから」
「でもオマエ、今ムカついてんだろ?」
「うん。……でも、落ち着いてきた」
「いなくなったから?」
「うぅん。まだ、いる。でももう、ボクの目からはソレが見えなくなった。だからもう大丈夫。ちょっと心臓バクバクしてるけど」
「……そこまでクるんだ……」
アイツはけっこう驚いたみたいだった。
実際、ボクも少しばかり驚いてた。
それってのは、実はボク、もう腹が立つことはないんじゃないか、って気がしてたからなんだ。
アイツに答えをもらった。リクツが、わかった。それが正解なのかどうかはわからないけど、とりあえず自分が納得できるだけの理由はもらえたんだ。
だからもう、前みたいに腹を立てることはないんじゃないか、って思ってたんだよね。
でも、違った。
いや逆に、知る前よりも腹を立ててた。
そう、アイツが言ってたみたいに、……マジいきなりそいつをぶん殴りたくなるぐらい、腹が立っちゃってた。
こんなの、今までになかったことだ。
「どうした? 顔色、悪いぜ」
アイツが言ってくれる。ボクは頷いた。気分が悪い。視界が急に白黒っぽくなる感じ。耳にフタがされるような感じ……覚えがある。覚えがあるぞ、この感じ。何だっけ……。
「あ、おい! ちょっとオマエ、おい!」
アイツの声がすごく遠くに聞こえた。
ああ、思い出したぞ。これ、貧血だ……。
「まったく驚いたよ。急にしゃがみ込んで、かと思ったらそのままコロンと横倒しになっちゃうんだもんな」
アイツが笑ってる。
景色にはどうにか色がついてきた。音もそこそこ、普通に聞こえる。
ここ、アイツんちのアイツの部屋。
街なかで貧血を起こしちゃったボクは、アイツの肩を借りて、とにかくここまで連れてきてもらったんだ。
貧血だって言ったら、アイツが、『じゃあオレんちに来い』って。
貧血の時はアタマを下にして寝るといい、でもファストフード屋じゃ横になれない(なりたくもないだろ?)。だから来い。俺が手伝ってやるから。
ボクは、そんなアイツのことばに、どうにかこうにか頷いて。
それで今、アイツのベッドで、寝てる。アタマが少し低くなるようにして。アイツはそんなボクを、心配そうに見ててくれてる。
ボクは言ってみた。
「なんか……だいぶいい感じだよ。ねえ、水が飲みたい。水、くれる?」
「ああ、持ってくる。ちょっと待ってろ」
アイツが立ち上がり、部屋から出てく。
その姿を目で追いながらボクは、まだ少しぼやけて、ついでにうっすら痛む感じの頭で、考えるともなく考えてた。
おかしいな。うん、やっぱヘンだ。
確かにいつも、カーッときてた。アイツに会う直前にも、だ。
でも、貧血を起こすぐらい腹を立てたことなんて、確かに、なかった。今までは。
どうしちゃったんだろう……?
「お待たせ」
アイツがグラス持って戻ってきた。
「起き上がれるか?」
アイツが言う。ボクは少し首を持ち上げてみて、「大丈夫みたい」と答えた。
「すまねぇな。うち、ストローなくてさ。飲むには、どうしても起きてもらわなきゃ」
「うん、平気っぽい。……ごめんね、心配させて。手間もかけさせて」
「気にすんな。そのかわり、もしオレが貧血起こしたら、オマエ助けてくれ」
「いいけど……キミが貧血起こすことがあるなんて、考えられない」
「……なんだそりゃ」
アイツが唇を尖らせた。その顔がやたらとおかしかったから、水を口に含みかけてたボクは、危うく噴き出すとこだった。
「で、なあオマエ」
アイツが真顔に戻って言う。
「いつもあんな風になるわけじゃ、ないんだろ?」
ボクは少し困ったけど、でも、頷いた。
「だよな。オレにゃ何があったんだか、全然わかんなかった。それぐらい大したことないコトに、いちいちあんなに反応してたんじゃ、からだが保たねえよな。なんか今日は、劇的に反応しちゃったみたいだな」
「うん。そうなんだ。なぜかは自分でも全然わからない、見当がつかない……」
アイツは、うんうん、と頷いてタバコをくわえた。そして、慣れた仕種で火を点ける。
ふはー、と軽く煙を吐いてから、アイツはボクの方を見ないで言った。
「オレ思うんだけど、逃がし弁が逃がし弁じゃなくなっちゃったのかもしれねえよ」
「どういうこと?」
「今まで、それが逃がし弁だって知らなかったから、そこで逃がすことができてた。でもわかっちゃったわけだ。そうしたらそれは、普段殺してる感情と同じになる」
「………?」
「ふだん天引きで感じてることと、同じ次元の感情になっちゃったんだよ。逃がし弁であるはずのことが」
「だから……?」
「心のどこかのバランスが、狂っちゃったんじゃないか。それで、心がどうしたらいいかわかんなくなって、それがああいう具合に、からだに影響を及ぼした」
アイツって本当に頭がいいと思う。何でもわかる。何でも知ってる。ボク自身がわからないボクのことを、こんなに鮮やかに説明してみせてくれる。
でも……。
「じゃあボク、どうしたらいいんだろう。これから先、うまく天引き分を片づけることができなくなった、ってわけでしょ?」
「んー、あんまり心配ないんじゃないか、って気もする。そのうち何か、新しい逃がし弁を見つけるんじゃないかな」
「でもさ、問題はそれまでの間、どうすればいいか、なんだよ。新しい何かが見つかるまで、開いた口を見るたびにいちいち貧血起こしてたんじゃ、死んじゃうよ」
「開いた口ィ!?」
しまった、と思った。でももう遅い。
「開いた口って、どういうことだ?」
仕方なくボクはアイツに、それを説明した。嬉しいことに、(まあそうなるとは思ってたけど)アイツはボクを茶化したりしなかった。ただウンウンって聞いてくれた。
「なるほどな。それがオマエのスイッチだった、ってわけだ……。ふーむ……」
アイツがまた耳の後ろを掻いた。ちょっと猫っぽい感じで、可愛い。
「よし。こういうのはどうだ? まずそのスイッチにケリをつけちゃうんだ」
「ケリをつける? どういうこと?」
「あんまりいいことじゃないんだけどな……」
そしてアイツは、びっくりするようなことを言い出したんだ。
殴っちまえ。そいつを。
口だらーんと開けて歩いてるやつを、叩きのめしてやれ。お仕置きをしてやるのさ。
「……それって……なんで……?」
アイツは、ふー、と煙を吹き出して言った。
「つまり、オマエにとってそれが、本当に大したことじゃない、ってことを証明するのさ。
気になるのに手を出せない、そう思ってるからストレスにもなる。
でも、一度でも手を出しちゃえば、楽になるハズだ。
よくあるだろ? スゴそうなことで手を出しかねてたのに、実際にやってみたら“なぁんだ、こんなことだったのか”って思うようなことが。その手さ。
口だらーんは、オマエにとっては手を出しかねることなんだよ。でも、手を出すことができるんだ、って思えれば、それ自体は今度こそ本当に大したことじゃなくなる。
そうすればそれは、逃がし弁には絶対ならなくなるけど、そのかわり、貧血起こすほど大変なことでもなくなる」
「なるほどね。納得は、したよ。でも……」
「大丈夫。オレが手伝うから」
「だけど……」
「安心しろよ。適当なカモも見つける。間違いなく殴り倒せて、後から追いかけてもこない、揉め事も起きないようなやつ、選ぶよ」
「けど……」
「オマエが殴り倒せなかったら、オレも手伝ってやっから。……って、それじゃあオマエの克服の役には立たないか」
ボクは何だか、妙におかしくなった。笑わないといられない気分になった。
それで、笑った。
アイツもいっしょに、笑ってくれた。
「……じゃあ、やるか?」
アイツが言った時、ボクはもう迷わずに、うん、と頷いてた。
アイツがタバコを消した。いつもの通り、火種が残って煙をあげてる。ボクは笑うのをちょっとやめて、グラスに少し残っていた水を、灰皿に注いだ。
アイツも笑うのをやめた。
(続く)