かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【パニッシャー】(前編)

『!』
 アレを見てボクは、思わず漏れそうになった声を、あわてて呑み込んだ。
 あの野郎、ふざけやがって……!
 ボクは、アタマにくくくーっと血がのぼってくのを実感した。景色がちょっと揺れる。あんまりアタマに血が集中し過ぎて、血圧があがったからかもしれない。
 指先がチリチリする。心臓もドキドキしてる。息も自然と荒くなる。
 ボクは苦しい胸に手を当てながら、自分にいいきかせた。
 辛抱だ。そう、ほんのちょっとだけの辛抱だ。あの野郎がボクの視界から消え去るまでの間、ちょっとだけガマンすればいいんだ。
 いや、ボクの方から見るのをやめたっていい。そう、見るのをやめた方がいい。目を逸らすんだ。そうすれば落ち着く。
 だいたい、こんなことに腹を立てるなんて、こんなに腹を立てるなんて、バカバカしいじゃないか。
 でも目が吸いよせられる。アレから目が離せない。ダメだ、見ちゃダメなんだ……。
 ボクが何を見たのかって? それはちょっと、いえない。でも、ひとつハッキリといえることがある。
 ボクはアレがキライだ。大っキライだ。見るといきなり腹が立つ。腹が立ちすぎてクラッとくるぐらいにキライなんだ。
 でも困ったことに、アレってのはどこでもしょっちゅう見かけることなんだよね。
 なのにボクは、アレを見ると“いいオトナが何やってやがる!”……って思う。恥とかガイブンとか知らないのかよ、って。そんなことしてるから、ボクみたいな若造にバカにされるんだよ、って。
 でも……でも、実は自分でも、よくわかってるんだ。本当はアレって、大したことじゃないんだ、ってことが。
 そう、大したことじゃない。誰だってすることがあるだろう。一度もしたことがないひとなんて、いないはずだ。いいオトナに限ったことじゃない。若くても、男でも女でも、誰だってやるようなことなんだ。
 それでもボクには、アレが許せない。チラッと見ただけで、アタマに血がのぼる。
 なんでそうなるのか……それは知らない。わからない。ただ、腹が立つことだけは確かだ。それも、強烈に。
 ボクは、今はまだ、ガマンしてる。何とかこらえてる。でも最近、“もうすぐガマンできなくなるかも……”って思うようになった。そんな自分が、ちょっと恐い。
 そうこうしてるうちに、アレをしてるやつはボクの視界から消えてくれた。まだ心臓はドキドキしてるけど、アタマの血がすーっと下がってくのがわかる。ボクは「ふー」と息を吐き出して、少しだけ安心した。
 でも気は抜けない。こうして街なかを歩いてる限り、いつまたアレに出会うかわからないからだ。
 その都度ボクは、声を呑み込み、胸をおさえ、そしてアレから目を逸らさなきゃならない。
 まったく、ちょっと友達に会うために街を歩くだけでも大変だ。どうしてみんな、あんなにみっともないことを、平気でできるんだろう……?

 そう、この世にはさ、普通には別に大したことでもないんだけど、個人的には“絶対に許せないこと”って、ある……と思わない?
 ボクは、自分でいうのもなんだけれど、けっこう寛大なタイプだと思うんだよ。
 たとえばさ、角のメガネ屋の店員。
 あいつが毎日のように店頭でマイク片手にがなってるラッパー気取りの客引き文句が、いつにも増してとんでもなく調子っぱずれな日があったとしても、ボクは気にしない。
 あいつにはあいつの事情があるんだろう。そもそもラップは得意じゃないのに、店の都合でやらされてるとか。その日とんでもなく調子が外れてるのは、そうだなぁ、出勤前に食べたトーストが生焼けだったのかもね。
 それにたとえば、あのオヤジ……いつもこのファストフード屋に来てるオヤジ(本当にいつも来てるかどうかはわからないけど、とりあえずボクたちがこの店に入った時には、まずたいてい出くわすヤツ。今日もさっきまでいた)が、ストローもリッドもカップもラップも、あろうことかトレイも灰皿も、全部まとめて燃えゴミの方に棄てちゃってるのを見ても、そんなにイラ立ったりはしない。
 あと、そうだなぁ、ボクたちと同い年ぐらいの女の子が避妊しそこなって、それでできちゃった子を堕胎しても、まあ許すかな。うん、それも一種のひとごろしだと思ってるけどさ、いろいろ考えるとね。それもそれで、仕方ないんじゃないかなあ、って思うわけ。
 ね? ボクって寛大でしょ?
 でも、許せないことってのが、あるんだ。
 自分でもわかってる。そんなことにいちいち腹を立てるってのが、すっごくバカバカしいってことは。
 でも、腹が立っちゃう。
 それは、くだらないこと、なんだよ。
 全然、意味のないことなんだ。
 でも、抑えられない。腹が立つことを。
 ねえ、そういうことって、あると思わない? 誰にでもさ。きっと、さ。

「……まあ、わからない話じゃないな」
 アイツはそう言ってくれた。
 ボクはその日、初めてそんな話を……くだらないことなのに、どうしても許せないことがあるって話を、ひとにしたんだ。
 その相手が、アイツだった。
「確かにさ、オレにもあるよ。くだらねえって心底わかってんのにさ、ムカついて仕方ないこと、ってのが」
 アイツがそう言ってくれた時、ボクは本当に嬉しかった。
 ってのは、こういう話ってけっこうバカにされるんじゃないかとか、もしかしたらそんな風に感じることがあるのってボクだけなんじゃないか、なんて思ってたから。
 思ってたけど、このところどうにも気持ちの中での落ち着きが悪くて。
 だから誰かにそれを、『いや特別なことじゃないんだよ』って言ってほしかったんだ。
「オレにもあるよ。すっげぇムカつくんだよな。いきなりそいつを殴り倒しそうになるぐらいにさ。
 でも、いつも何とかこらえてる。だってさ、本当にソレって大したことないコトだからなんだ。そんなことで誰かを殴ったりしたらマジやばいってのが、自分でもよーくわかってるからなんだ。
 でも、ムカつくんだよな。
 そんなのって、確かに、ある」
 アイツは頷きながら、根元近くまで吸ったタバコの先を灰皿に押しつけた。
 そして指先を軽くクリッとひねって、先に点いてる火種をポロッと落とす。
 落とすけど、もみ消しはしないから、ふわっと白い煙が立ち上って、ゆらゆら揺れる。アイツのいつものやり方だ。
 ボクは、飲みかけのオレンジジュースのストローの吸い口を指先で押さえて、カップから抜いた。そのストローの先を灰皿の上に持ってって、指先を離す。そうすると、ストローの中に残ってたジュースがチュルッと落ちて、火を消してくれる。やったこと、あるでしょ。カンタン消火器。
 火種を残すのがアイツのやり方なら、それをこうして消すのがボクのやり方。いつも通りの、ちょっと儀式みたいなやりとり。
 煙は消え際に必ず、ひと際強くもわっと立ちのぼる。まるで、『まだ俺を消さないでくれ……』ってうめいてるみたいに。
 それを眺めながら、ボクはアイツに尋ねた。
「どうして、腹が立っちゃうのかな。許せなくなっちゃうのかな」
 アイツは、もう煙のあがらなくなった灰皿を見ながら、んー、とうなった。
「さあ、な。オレは最初、モラルってやつの問題だと思ったんだよな。
 でも、いわゆるモラルってのは、省みるもんだとオレは思うわけよ。
 ところがそういうのって……何でもないことへのメチャ濃いムカつきって、省みたり考えたりするヒマなんかなくて、もう脊髄反射みたいに反応しちまうんだよな」
「うん、うん。そうだよ。そうなんだ」
「でも、脊髄反射でいきなり怒るってんじゃ、それはもうモラルとはいえない気がする。モラルってのは多分、もうちょっとアタマを使うもんなんだ」
 アイツは言いながら、耳の後ろを掻いた。
 これ、アイツが考え事してる時のクセだ。何だかアイツには不似合いで、だからボクはそのクセが何となく好きだったりする。
 それにしても、とボクは思う。
 アイツってこういうことについて、本当によく考えてくれる。それに、かなり物知りだ。どうして学校を辞めちゃったのか、ボクには見当がつかない。
 そう、アイツは学校を辞めちゃった。もう三か月ぐらい前のことになる。その前から、わりとクラスでは浮いた感じがあったけど、まさか辞めるなんて思ってなかった。
 で、アイツが今、何をしてるかっていうと、何もしてない。とはいえ、家にひきこもってるわけでもない。けっこうあっちこっち出かけたりもしてるみたいだ。
 そしてアイツは、ボクが呼び出せば、たいがい会ってくれる。今日もボクが呼び出した。それでこうして、いつものファストフード屋で、ポテトつまんだりジュース啜ったりしながら話をしてるってわけ。
「おそらく、さ」
 アイツが言う。
「感情のやり場っていうか、逃がし弁っていうか……そんなもんなのかもしれないな」
「逃がし弁?」
「オレたちいつもさ、なんかこう、やりきれない感じで生きてないか?」
「……よくわかんない」
「まあいいさ。とにかくオレたち、いろんなことについて、少しずつ死んでるんだよ。
 楽しいことも悔しいことも、ムカつくことも、百パーセント感じたまま味わってるわけじゃないだろ? いつもどっかでセーブかけてる。何割かを天引きして感じてるんだ。そうしないと世の中、生きていけない」
「あ、それならちょっとわかる気がする」
「な。だけどさ、その天引きされた何割かって、やっぱどっかに溜まるんだよ。それが溜まり過ぎると、きっとおかしくなるんだ。
 だから、おかしくならないように、どこかで、何かの時に、溜まった分を逃がしてやらなきゃならない。
 ……原子炉のさ、冷却水のパイプには、そういう仕組みがあるんだってさ。内圧が高くなり過ぎてメインの安全弁が開いちまう前に、ちょっと低めの圧で開いて圧力を逃がす弁ってのがさ。
 原子炉はそいつのおかげで、決定的なダメージを受けずに済む……ような設計に、一応、してあるらしい」
「じゃあ、それみたいにボクたちは、いつも知らずに抑えてるものが破裂するのを、防いでるってこと?」
「そう。その逃がし弁のスイッチが、それ……何でもないことのはずなのにムカつくこと、なんじゃないかな。そんな気がする」
「わあ……」
 ボクはちょっと感動した。手品師が目の前で、たった今起きた奇跡のタネを明かしてくれたみたいな感じ。
「すごいね! 同い年とは思えないよ、ボク尊敬する! キミを尊敬する!」
「……やめろよ、そんなの。気持ち悪い」
 アイツは少し照れたみたいな顔になって、横を向いた。横を向いて、またタバコを取り出し、くわえた。

(続く)