かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【ネイバーフード】(前編)

 ぐにゃっとする感じ……。
 そう、あの小道さ。いつも思ってた、何だかヘンな場所だぞ、って。
 小道っていっても、ちゃんとした道じゃない。ビルとビルの間の、ほんのちょっとした隙間さ。誰が通ることもない、ただの隙間だよ。よくあるでしょ、そういう場所って。
 でも、あの小道はちょっと違ってた。
 なんかね、いつも陽炎が立ってる感じなんだ。向こうの道路が見通せるけど、その景色がいつもぐにゃっとして見える。だからボクは気になって、ずっと、そう、その小道のことを知ってからもう一年ぐらいも、その前を通るたびに小道を覗き込んでたんだ。
 いつも陽炎が、その奥にあった。
 ただ、そう見えるのは、どうもボクだけらしいんだけどね。いっしょに通りがかった友達に『ねえ、ここから見える向こうの風景って、ヘンじゃない?』って訊いたことがある。でも友達は『別に』って言ってた。
 でもボクには、そこに陽炎が見えるんだ。
 夏でも冬でも。晴れでも雨でも。真っ昼間でも、夕方でも。
 おかしい。おかしいよ。
 この小道、どうなってるんだ……?
 それで通ってみたのさ。その道を。
 ぐにゃっとする感じ……。
 そう、ぐにゃっとした。
 自分自身が陽炎そのものになっちゃったみたいな。それか、自分以外の全世界が陽炎になっちゃったみたいな。
 ちょっと立ちくらみがしたよ。でも、それだけだった。振り返るとやっぱ陽炎の小道があって、そしてその向こうには、ボクが今し方通り過ぎてきた道の景色があった。
 なぁんだ。ちょっとガッカリ。
 陽炎、は、あるのかもしんない。こういうビルの隙間には、エアコンの排気がよどんでたり、陽差しの加減なんかで気温が不自然だったりする場所があるらしいよね。そういうのが陽炎を立たせてただけなのかも。
 つまんなかったな。こんなことなら、わざわざ通ってみたりしないで、ヘンだなって思ってるだけの方がよかった……。
 で、ボクは家に帰ったのさ。家っていっても、今ボクは独り住まいしてるから、小さいアパートのひと部屋なんだけど。
 いつも通りポケットから鍵を出して、鍵穴に突っ込んで、回し……まわ……え?
 回らない!?
 ちょっと待て、そんなハズないぞ。これ、ボクんちの鍵だよな。他の鍵と間違えてないよな。ボクは鍵を抜いて確かめた。うん、これはボクの部屋の鍵だ。間違ってない。
 ボクはもう一度、鍵を差して回そうとした。でも……やっぱり回らない。
 勘弁してよー。家に入れないじゃんかー。
 ボクは考えた。これはいったい、どういうことなのか。
 可能性その一。部屋を間違えた。いや、それはない。だって表札が出てるもん。ちゃんとボクの名前だ。
 可能性その二。やっぱり鍵を間違えた。いやいや、それもない。キーホルダーはいつものやつだし、並べてつけてる鍵はどれも部屋の鍵とは似てない。間違えっこない。
 可能性その三。ボクが出かけてる間に、誰かが錠を替えちゃった。これはあり得る……かもしんない。だとしたら何のために? たとえば、隣の部屋のやつが鍵なくして、それで交換を頼んだんだけど、鍵屋が間違えてボクの部屋の錠を交換してっちゃったとか。うん、これならありそうだな。
 それなら、不動産屋へ行けばどうにかなるはずだ。事情は違ったとしても、不動産屋へ行けばスペアキーがあるハズだし。そうだ、不動産屋へ行ってみよう。

「これ、ちゃんと返してくださいよ」
 不動産屋の若い社員が、そう言いながらボクに鍵を渡してくれた。
「それオリジナルキーなんですからね。一両日中にそこらの合鍵屋でコピー作って、オリジナルの方を返してください」
 つっけんどんな言い方は、彼らのスタンダード。業界統一マニュアルがあるに違いないって思うほど、どこの不動産屋も同じ。
 あれからボクは不動産屋へ行き、事情を話してみたんだ。不動産屋の若い社員は、最初は『そんなハズないでしょう』って取り合ってくれなかった。でも、ボクが持ってる鍵を見せて、それがアパートで使われてる鍵とまったく同じタイプで、キザミがひとつ、ほんの少しだけズレてることを確かめたら、
「それ最近作ったコピーじゃないですか? 時々、合わない程度にズレることがあるんですよ」
 って言いながら、面倒くさそうにアパートまで来て、ボクの目の前で錠を開けてくれた。
 ボクは『そんなことない、今朝出た時にはこの鍵で閉めた』って言ったんだけど、ぜんぜん相手にしてくれなかった。やっぱマニュアルがあるに違いない、そうでなきゃあんなにひとをバカにした態度はとれっこない。
「それにしても、だ」
 やっと部屋に入れて落ち着いてから、ボクはひとりごとを呟いた。
「あり得ねー……よな」
 あの口ぶりだと、不動産屋が鍵を替えたってことはなさそうだし。だいたい、現物を突き合わせてみた時、ボクの鍵と“この部屋の鍵”には、ほんの一ミリぐらいのズレしかなかった。錠全体を取り替えたなら、多分、もっと根本的に違う鍵になってるはずだ。あれだけ似てて、でも合わないなんて鍵になるはずは、ない。
 ボクはベッドに腰掛けて、考えた。
 誰かのイタズラだろうか。たとえば誰かがボクの鍵をすり替えたとか。
 ……なんのために?
 これもあり得ないな。そこまで手間をかけたイタズラをしそうなやつは、とりあえずボクの周りにはいない。それにそもそも、この鍵はボクのポケットにずっと入ってたんだ。それを一旦掠めとり、ズレたコピーを作ってから戻すなんて、その道の名人でもなきゃできることじゃない。
「じゃあ、他にどんな可能性がある……?」
 ボクはまたひとりごとを呟いてみた。声を出さないと恐い、そんな気分だったからだ。
 そう、恐かった。
 知らない間に、身に着けてたモノがすり変わってる。これって、なんかゾッとすることじゃない? ひとりでいる時にシミジミ考え始めると、だんだん寒けがしてくるようなことだよ。だから理由が欲しかった。納得できる事情ってのが、欲しかったんだ。
 でも、ピッタリくる論理的な説明なんて、そうそう思いつくもんじゃない。
 ボクは煮詰まってしまった。こういう時には、気分転換するに限る。ボクは立ち上がって、とりあえずテレビを点けようとした。
 あれ。リモコンでスイッチが入らない。てことは、本体の電源を落としたってこと? おかしいな、ボク滅多に本体の電源は落とさないんだけどな……
「あ」
 喉から思わず声が溢れた。
 これ、違うじゃん! テレビ違うじゃん。ボクのじゃないよ、これ。よく似てるけど違う! 本体の電源を入れようとして、気づいたんだ。スイッチの位置が左右反対になってるぞ! なんで!?
 ボクはあわてて部屋から飛び出し、もう一度表札を確かめてみた。……間違いない、ここはボクの部屋だ。
 中にとって返し、テレビ台の中を見た。ボクはそこに、使ってる電化製品のマニュアルをまとめて置いてるんだ。
 マニュアルの束をまるごと取り出すと、それは埃まみれになってた。もう半年ぐらいは触ってません、って風だ。テレビのマニュアルを出して、型番をチェック。本体に貼られてる型番シールも調べてみる。
 ……同じ、だ……。
 これ、どう解釈すればいい? こんな手の込んだイタズラって、ある? イタズラじゃないとすれば、これはどういうこと? ボクの記憶がどこかで歪んじゃったってことか!?……それとも……。
 ボクは考えた。今日一日、普段と何か違うことがあったか。ヘンなことをしたか。朝、目覚めた時からの記憶をトレース。
「……あれ、か?」
 あの小道。陽炎の。あそこを通り抜けた。
 ……あれ、しか……ない、か。
 そういえばあの時、奇妙な感覚があったじゃないか。ぐにゃっとする感じ。立ちくらみっぽい、歪んだ感じ。
 あそこで、何かが、変わった……?
 ボクはジャケットをはおり直して、部屋を飛び出した。あの小道、陽炎の小道に、きっと何かある……そう思って。

(続く)