かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

【ネイバーフード】(中編)

(承前)

 そこには相変わらず、陽炎が立ってた。見える景色はやっぱり揺らいでる。
 ここを通ったら……変わる、に、違いない。そうでないと、困る。説明がつかない。
 ボクは恐る恐る、小道に踏み込んだ。
 もしこれで変わらなかったらどうしよう? でも、変わったなら変わったで……。
 ぐにゃっとする感じ。
 そう、ぐにゃっとした。
 自分自身が陽炎そのものになっちゃったみたいな。それか、自分以外の全世界が陽炎になっちゃったみたいな。
 ちょっと立ちくらみもした。うん間違いない、この感じだ。てことは、やっぱりこの小道は……。
「入り口、だってこと?」
 知ってる。知ってるぞ、そういうの。マンガで見たのかな。小説? どっちにしても、アレだ。パラレルワールド
 世界は無数の分岐と偶然の選択とに満ちてる。原子いっこの振舞いから、人間や動物の行動に至るまで、世界は選択肢だらけだ。つまり、世界の可能性は無限に存在する。その時、その分岐で、何が選択されるか次第で、以後の世界が確定する。
 今あるこの世界は、ある選択の(それも同時に起こる無数の)組み合わせで、成立してる。でも、その組み合わせは絶対じゃない。
 たとえばボクは今朝、紺色の靴を選んで履いたけど、その時、黒とどっちにしようか少し迷った。もし黒を選んでたら、その世界は今の世界と微妙に違った世界になってるってわけだ。それがパラレルワールド
 でもそれって、理屈の上だけのことのハズだよね。だってボクが黒い靴を選択した世界は、現実には存在しないんだから。その機会があった、ってだけで、実際にはそんなことは、存在するわけが……。
「あったのかもね」
 ボクはそう呟くしかなかった。そうでなくちゃ、ボクはただの狂人になっちゃう。
 ボクは急いで家に戻った。そして、ボクの鍵を……最初から持ってるボクの鍵を、錠に差し込んだ。
 合わない!
 ボクはあわてて、さっき不動産屋からもらった鍵も試した。
 ……合わない……。
 なぜだ? マンガとかだと、これで戻れるんだぞ。戻ってメデタシメデタシなんだ。なぜ戻れない?
 ボクはマジでパニクった。どうしたらいいかわからないし、かといってまた不動産屋へ行くのも気が滅入る。結局ボクは、アパートの近くにある公園のベンチに座り込んで、しばらくの間、ぼーっとしてた。
 だんだん日が暮れてくる。心細さが、ますますつのってくる……
 待てよ。
 もしかすると、入る方向によるのか? ボクはさっき、最初と同じ方向から入った。戻るなら、逆に入らなきゃいけなかったのか?
 それだ、それに違いない! ああ、ボクはなんてウカツだったんだろう。戻る時には逆コース。そんなの基本中の基本じゃん。
 そしてボクは、またあの小道に戻った。そこに着いた時には、もうすっかり日が暮れてた。ずいぶん暗くて、陽炎は見えない。
 ……でも、この奥には、陽炎があるに違いない。ここを通ったら、変わる。きっと変わるに違いない。
 ボクは“出口”の方から、そこに入った。
 ぐにゃっとする感じ。よし、これでボクは移動した……と思った途端ボクは、比喩じゃなしに目がくらんだ。
 明るい! 日が暮れてないぞ!?
 てことは、時間までも変わったってこと!?
 ボクはすぐ近くのコンビニに駆け込んで、時計を見た。自分の携帯の時計を確認することは、ちょっと恐くてできなかった。
 その時刻は……
(最初に、あの小道を、通った……時?)
 どうやら、そうらしい。一応念のため、店員に今日の日付も尋ねてみた。間違いない。ボクはどうやら、時間の上ではスタート地点に戻ってきちゃったらしい。
 だとしたら、鍵も元に戻ってるかも。
 また戻る。そして鍵を試す……合わない。どっちも合わないよ!
 てことは、あの道は完全な一方通行? 一度通ったら、ひたすらパラレルワールドを移動し続けるだけ? 元の世界には……もう、戻れないってこと!?
 そんな! そんなぁ!!

 あの日以来ボクは、ずーっと移動を続けてる。
 パラレルワールドを、どんどん渡り歩いてる。
 とにかく何度も、何度でも、あの陽炎の小道を通ってる。いつか元の世界に戻れるんじゃないか、いや必ず戻らなきゃ、と思いながら。
 行動はすっかりパターン化したよ。小道を通る。家に戻る。鍵を試す。不動産屋へ行って新しい鍵をもらう。家で少しくつろいで、日暮れ頃にはまたあの小道へ行き、そして次の世界へ移動する。
 移動のたびに時間は巻き戻されるから、同じ一日が何度も繰り返されることになる。
 それと同時に、ボク自身の肉体も、時間的には巻き戻されるらしい。しばらくの間は、とにかく無闇に移動を繰り返したけど、疲れてはこなかったし、空腹も感じなかった。
 家と不動産屋と小道、距離としてはけっこう離れてるんだよね。そこを何度も行ったり来たりするってことは、それなりにからだも使ってるってことになるハズだ。それに、立て続けに何度も通ったら、主観的には何時間も、もしかしたら何日も経ってておかしくないでしょ。
 でも疲れないし、からだが垢染みてくることもなかった。空腹も感じない。これはやっぱり、からだも時間の束縛から解放されてるって考えるのがスジってもんだよね。
 その証明ってわけでもないけど、何度めかに勇気を出して確かめてみた自分の携帯の時計も、きっちり巻き戻されてた。
 ただ、不動産屋からもらった鍵だけは、なぜか移動の回数分だけ地道に増えてる。それをストックしとくために、キーホルダーを何個も買い足した。最初のうちはそれをポケットに入れてたけど、どんどん重くなるから、それ用にバックパックも買った。
 次第に鍵で膨れてくバックパックを背中でジャラジャラいわせながら、それでもボクはボクの世界を目指して、何度でもあの小道を通り抜けてる。
 最初から持ってた鍵だけは、ポケットに入れたままで。

 いったいボクは、いくつの世界を通り抜けただろう?……いや、それはわかる。背中に背負った鍵の数を調べればいいんだから。
 でも、そんなことをする気にはなれない。結局は今もボクの鍵が合うドアにたどり着いてない以上、振り返るのはただ恐ろしいだけのことだもの。
 ある時ふと思いついて、実家に電話をかけてみたことがある。繋がった。ただ、話は微妙にズレてた。ボクの記憶にはないけど、その“世界”でのボクは、数日前に実家に戻ってたらしい。電話に出た母さんは、「また来てくれると嬉しいよ」って言ってた。ごめんね母さん。それボクじゃないし、ボクはもう母さんのところには行かない。行くとしたら、それはボクじゃないボクだ。
 きっとそのうち、実家の電話番号も変わるんだろうな、って思う。そうなったら、簡単には実家に連絡を取ることもできなくなるんだろうな、って。
 移動するのに気疲れして、しばらくその世界に居続けたこともある。
 もちろんボクの部屋で暮らした。遠慮することはないよね、だってボクの部屋なんだもの。
 なにしろボクの部屋だから、置いてあるものもだいたいは同じだ。最初に気づいた時みたいに、たとえばテレビの使い勝手が違ってるとか、あるはずのオーブントースターがなかったとかの違いはあったけど、まあ快適っていえば快適だった。ボクんちだから。
 その時は確か、一週間ぐらいその世界にいたんだったかな。少し出かけてみたら、友達とかもちゃんといたよ。
 少しディティールは違ってたけど、でもそれは、ごく細かい違いだ。かけてるメガネのデザインが違うとか、持ってる携帯が違うっていう程度の。友達ひとりがさっぱり消えちゃってた、なんてことがなかったのには、ちょっと安心したな。
 そこはそこで、居心地いい世界ではあったんだ。でも結局ボクは、そこからも移動してきた。
 なぜって、やっぱり『いや、ここはボクの世界じゃない』って気持ちがあったからだ。ボクの鍵が合わなかったのが、その何よりの証拠。ボクの世界なら、ボクの鍵が必ず合うはずなんだ。
 それに、もともとその世界にいたハズのボクに対する、ちょっとした気兼ねもある。
 そう、その世界にも、ボクはちゃんといたハズなんだ。ボクとは違う、でもまぎれもなくボク自身でしかあり得ないボクが。だからこそ部屋がある。友達だっている。
 ただ不思議なことに、ひとつの世界に長居しても、その世界のボク自身とばったり出くわす、なんてことはなかった。多分、それが“いけないこと”だから、なんだろう。
 いくらなんでも、ひとつの世界にボクがふたりいたら、いろいろと問題だもんね。だからきっと、ボクが移動するたびに、すべての世界のボクが同時に強制的に移動させられてる、ってことなんだろうと思う。
 ちょっと考えると、なんとなくおもしろいよね。ボクがあの小道を通るたびに、すべてのパラレルワールドのボクが、同時にシャッフルされてる。いったい他のボクは、そのことに気づいてるんだろうか。
 もしかしたら、と思う。
 ボクも実は昔、他のボクにシャッフルされてたのかもしれないな、って。ただボクがそれに気づいてなかった、っていうだけで。
 そういえば、さ。思い当たるフシって、ない? ふと気づいたら、なんか違う……って感じてたようなことが。それが何なんだかはわからないけど、なんだか違うみたいだぞ、っていう漠然とした感覚。
 デジャビュってあるよね。あれなんかも、そうなのかもしれない。別の世界にいた時すでに経験してたことを、たまたまその世界ではまだ経験してなくて、それでカブって感じられるのかもしれない。あるいはボクだけじゃなく、世界中の誰もが、こうして世界をスリップしながら、でもそれに気づいていないってだけなのかもしれないな。
 それとももしかすると、どの世界のボクも、自主的にあの小道に踏み込んでるのかも?……そう思って一度、あの小道のぐにゃっとするポイントで立ち止まり、後ろを振り返ってみたことがある。でもその時には、何も見えたりはしなかった。そこにやってくる自分の姿が見えるんじゃないか、って思ったんだけどね。見えなかった。

(続く)