かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

魔少女・由衣 闇狩り【#1】誕生−02

(承前)

 その日の夜。
 舞唯に約束通りジェラートをおごり、ついでに自分でもダブルのジェラートを食べて“ズルい”と言われた由衣が帰宅した時、家にいたのは弟の隆ひとりだった。
「ただいまぁ。あれ、父さんと母さんは?」
 居間に入った由衣が訊ねると、由衣より三歳年下で中学生の隆は、TVゲームの画面を睨みつけたまま、由衣を振り返りもせずに言った。
「憶えてねーのかよ。一週間も前から言ってたじゃん母さんが。今日、仕事の帰りに父さんとふたりきりで食事をするから遅くなる、って。飯はちゃんとテーブルの上にあるから、自分で食べろってさ」
「へえ、ふたりで仕事帰りのお出かけかあ。今日って、何か特別な日だったっけ?」
 由衣は制服も脱がないまま、今日の収穫品のファイルを鞄から出し、その存在感を改めて確かめながら、ソファに座った。
「きれいさっぱり忘れてんな姉貴。今日って結婚記念日じゃん、父さんと母さんの。その分だとプレゼントも用意してないだろ」
 隆に言われて、由衣は「あーっ!」と叫んだ。
「そうだ、今日だったっけぇ。参ったなぁ、今年は何かいいもの準備して、びっくりさせてやろうと思ってたのにぃ」
「間抜けだなあ。俺なんか最高のプレゼントしちゃったぜ」
「なによ、何を贈ったの?」
「贈ったっていうか奉仕だね。今日の留守番っていう」
「そんなの、私だってしてるじゃないよぉ」
「こういうのは、アピールしてこそ意味があるんじゃん。さっき母さんから、念押しの電話がかかってきたんだよ。俺、『家には俺がいるから大丈夫。ゆっくりしてきて』って言っちゃったもんね。今頃のこのこ帰ってきたって、遅い遅い」
「……タカ……ずるいーっ」
 由衣は立ち上がり、手にしていたファイルで隆の頭を叩いた。その拍子に隆がパッドの操作をしくじり、TV画面を真っ白に光らせて銀色の戦闘機が粉々に砕け散った。
「うあー。なんてことするかー」
 隆が由衣を睨みつける。が、その目はすぐに、由衣の持っているファイルに向いた。
「なにそれ。渋いじゃん。ああ、それあげれば? 間に二人の写真でも挟んでさ」
「駄目。これは親友の舞唯からせしめた、私の新しい宝物なんだから」
「ガキじゃあるまいし、何がシンユウで何がタカラモノなんだか。それより、そろそろ彼氏のひとりもつくったら? それがけっこう一番のプレゼントだったりするかもよ」
「おまえ、生意気ー!」
 由衣が膨れっ面を見せると、隆はぷっと吹き出した。つられて由衣も笑いだした。
 笑いながら由衣は、思うともなく思っていた。
(そっかー、結婚記念日かあ。いいな、父さんも母さんも。二十年も一緒に暮らして、それを一緒に祝えるひとと結婚できて。……私もいつか、そんな結婚、できるかなあ……)
 そんな由衣の脳裡に、不意にひとつの顔が浮かんだ。けれども由衣は、慌ててその顔を打ち消していた。
 自分がその人に似合うわけがない。それに自分にはまだ早い、早すぎる──今はまだ。
(今はこうして、隆と笑っているのが似合ってるはずよね。うん、きっとそうだわ)
 由衣は考えるともなくそんなことを考えながら、ただ笑っていた。

 すっかり夏らしい日差しが、容赦なく降り注ぐようになった頃の放課後。
 由衣は、鞄を教室に置いたまま、校舎の裏手にあるクラブハウスへと向かっていた。
 由衣は、女子テニス部に所属している。
 そう、女子テニス部だ。この学校のすべてのスポーツ部は、一応男女が別になっていた。
 けれど、そのラインはごくアバウトなもので、特にテニス部では、男女合同の練習は当たり前だった。今日の練習もまた、男女合同でおこなわれるはずだ。
 男女合同の練習は、学校側にも何かと都合のいい状態らしく──というのも、由衣の通う学校は校庭がかなり狭く、一日にそう幾つものスポーツ部が同時に練習することには事実上の無理があるからだ──、男女部員間の交流、というより交際も、かなり寛容に認められている。
(あーあ……。まいっちゃうなー、なんか気が重いな……)
 ぽちぽちと廊下を歩きながら由衣は、ため息をついた。顔色も、あまり冴えない。
 それというのも頭の中で、舞唯との一昨日のやりとりが、何度も繰り返されていたからだ。
 一昨日、由衣と舞唯は、学校帰りに寄ったハンバーガーショップで、こんな会話を交わしたのだった。
『言っちゃいなよお。いつまでも待ってたって、いいコトなんか絶対ナイってば』
『でも……私なんか、そんなに可愛くないしさ。舞唯みたいに女っぽくもないし』
『そんなコトないって。由衣は充分に可愛いよ。ま、確かにあたしほど色っぽくはないけどね』
『……傷つくんだよなぁ、それ』
『駄ぁ・目。傷ついてるヒマがあったら、アタックあるのみだってば。ね? だからぁ、早くコクっちゃいなよぉ』
『うーん……じゃ、やっぱバレンタインまで待って……』
『あんた、馬鹿? 高崎先輩、競争率高いわよ。今までフリーだったってコトの方が、奇蹟的なんだからね。
 それに、次のバレンタインって、在学中最後のチャンスでしょ。みんな狙ってるに決まってるわ。だいたいその頃って、三年生は学校になんか出て来ないじゃない。今だって、高崎先輩みたいにまだ部活に出てる人、少ないんだから。
 そーいう状態で迎えるバレンタインに、他の女を押し退けて勝つ自信、由衣にはあるの?』
『……ない』
『ね? だったら、抜け駆けするっきゃないよ。絶対、早いウチがいいって。あたし、いっくらでも協力してあげるからさぁ』
『……うーん……』
 由衣はため息をひとつつき、窓の外を眺めた。そんな由衣を舞唯は、どこかつくりものめいた冷たさに透き通った鳶色の瞳で、ただじっと見つめていた。
(でも……だからってね……)
 由衣は廊下に立ち止まり、またため息をついた。
 高崎達也は、男子テニス部のキャプテンだ。由衣はテニス部入部以来、彼に憧れていた。
 涼しげな目許、長めの髪、すらりと高い背。そして何より、テニスが巧い。指導は優しく的確で、由衣もこれまでに幾度となく役に立つアドバイスをもらっている。
 由衣にとって高崎は、頼り甲斐のある先輩であり、コーチだった。
 そんな高崎への由衣の気持ちが急に膨れ上がってきたのは、ここ一か月ほどの間のことだ。そしてそれは、はっきりと初恋といえる感情の昂りにまで、育っていたのだった。
 どうして急にそんな気分になったのかは、由衣自身にもよくわからない。ただ、あの日から──両親が結婚記念にふたりきりの晩餐を楽しんで帰ってきたあの日から、どうも高崎の見え方が変わってきたらしい、ということだけはわかっていた。
 あの日の両親は、娘の由衣でなくとも、見ていて恥ずかしくなるほどに睦まじかった。
 帰って早々に父親は、買ったばかりのゴルフクラブのセットを出した。母親が、クラブヘッド用のカバーを、キルティングで作ってくれたのだという。そのカバーをクラブにひとつずつかぶせながら、父親は終始にこにこと笑っていた。それをやはり笑顔で眺めていた母親の指には、新しいシックな指輪が光っていた。
 成就した恋愛の、ひとつの理想像。それがあるいは、由衣の心に火を点けたのかもしれない。
 単なる憧れのポジションに収まっていた高崎が、それ以上の地位へと昇格したのは、由衣自身が、自分の理想の恋愛を本気で求め始めたからなのかもしれない。
 とはいえ、その恋心は、不器用きわまりないものではあった。
 練習中に彼の姿ばかりを、ついちらちらと目で追ってしまう。たまに視線が合うと、頭の芯が沸騰したような気分になる。声でもかけられようものなら、全身硬直状態。どれもが由衣にとって、これまでにまるで経験したことのないものばかりだった。
 それを舞唯に相談したのが、一昨日のこと。そして由衣は、舞唯に徹底的にけしかけられたのだ。
 そのことが頭を離れず、この二日間というもの、由衣は何をしていても上の空なのだった。
 今日は、舞唯とあの話をしてから、最初のテニス部の活動日。
(あーあ。舞唯になんか、相談しなきゃよかったよぉ。もう今日なんか、ドキドキちゃって、先輩のコト、ちらっと見ることもできないじゃないよお……)
 それがひどくつらいことのような、けれどもどこか甘いことのように思えて、由衣は、相変わらず上の空で部室へと向かっていた。
 と、後ろから、突然に肩を叩く者がいた。
「よお!! どーした元気少女っ。たったひとつの売り物の元気が、きれいサッパリ消えちまってるぜっ」
 いけない事をしているところを覗かれたように、由衣は全身をびくっと震わせ、後ろを振り返った。
「なにビビッてんだよォ。ところで今日って、テニスの活動日だよな? とっとと終わらせてくれよっ。ウチらサッカー部、明日は西高の連中呼んで練習試合だからさ。部活が全部終わった後で、校庭の整備とかの準備、しなくちゃならねえんだからよっ」
 槇田直樹だ。由衣、舞唯と同じクラスの男子。由衣の男版とでもいうのか、幼いほどに元気さだけが際立つ少年だ。だが、小学生の頃から続けているというサッカーの技量はなかなかのもので、彼に憧れている女子も何人かいるという。
 もっとも今の由衣に直樹は、ただ騒がしいだけのガキにしか見えなかった。
(なによ! あんたなんかに、私の気持ちがわかってたまるモンですか。少しは、高崎先輩のカッコよさと大人っぽさ、見習えばいいのにっ)
 そう思った由衣だったが、頭の中に“高崎先輩”という言葉が浮かんだだけで、また頭クラクラ状態が訪れてしまった。
 何かを言いたそうに口を開きかけ、けれどもすぐ俯いてしまった由衣を見て、直樹は目を丸くした。
「あ? マジでお前、調子悪いんじゃねえの? 保健室、行くか? ついてってやるぜ」
「い、いらないわよっ。調子、悪くなんかないんだからっ。……全然、悪くないよ……」
 由衣はそう言って、再び直樹に背を向け、歩き出した。だが、心の中では、
(調子、悪いよ……なんだか、ひと月前の自分じゃ、ないみたい……)
 と、ため息をついていた。
 そんな由衣の背中に向かって、直樹が言った。
「無理すんなよっ。なんか最近、急に死んじまったり、行方不明になっちまったりする奴が多いっていうしよ。くれぐれも、体は大事にしろよなっ。そンで、余裕があったら明日、試合、見に来てくれよっ」
 由衣は、肩ごしに適当に手を振って、部室へふらふらと歩いて行った。

(続く)