かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

魔少女・由衣 闇狩り【#1】誕生−03

(承前)

 きっかけは、本当に偶然のように訪れた。
 部活を終え、着替えを済ませた由衣が、女子部室を出た時。
 目の前に、高崎がいたのだ。
「あ……」
 由衣は、突然の状況に、いきなり硬直してしまった。高崎は、でも、そんな由衣の様子にまるで気を払うこともなく、笑顔で話しかけてきた。
「お、天宮くんか。ちょうど良かった。これね、夏の合宿の予定表なんだけど、中にいる女子に、配っておいてくれるかな?」
 そして高崎は、まだ少し汗を含んだ髪をかきあげながら、由衣にコピーの束を渡した。
「え、あ……は、はい……」
 由衣は答えて、部室を振り返った。
 中の女子全員が着替え終わるのには、まだ少し時間がかかりそうだ。今すぐ中へ戻れば、コピーはすぐに配れるだろう。だが、そう考えるよりも早く、強く由衣の頭に響いたのは、
(今なら、誰にも邪魔されずに、先輩と話ができる……ちょっとだけだけど、話ができる!!)
 という声だった。
 それは、自分の中のもう一人の自分が、由衣自身に語った言葉のようでもあった。けれど、彼女ではない誰かの声のようでもあった。
 どちらにしろ由衣は、その声に背中を押されて、普段からは想像もできない大胆さを、その時だけは、発揮できたのだ。
「あ、あの……高崎先輩」
 立ち去りかけていた高崎に、由衣は向き直り、声をかけた。
「え?」
 高崎が立ち止まり、振り向く。
「ちょっと、お話ししたいことがあるんですけど。……できれば、二人きりで」
 言いながら由衣は、あまりにもすらすらと言葉を繰り出す自分に、驚いていた。あるいは舞唯のおかげで、何かのふんぎりがついたのかもしれない──しゃべりながらそんなことを考える余裕さえ、あった。
「二人きり、で? いいよ。でも、今日はもう遅いね。どうかな、明日の放課後、男子部室で改めて、っていうのは」
「はい。それじゃ、四時……で、どうでしょうか」
「いいね。じゃ、明日の四時、男子部室で」
 高崎はまた髪をかきあげ、優しげな瞳を少しだけ細くして笑った。その笑顔は由衣にとって、すでに祝福のようなものだった。
 由衣は、コピーの束を抱き抱えたまま、立ち去る高崎の後ろ姿をぼーっとして見ていた。
 すらりと長く伸びた脚、大人びた風貌。──もしかしたら、私、あの先輩のカノジョになれるかもしれない。いや、もうなってしまったのかもしれない──由衣は、そう思った途端、今さら膝ががくがくと震え始めるのを感じていた。
(明日の、四時……)
 校舎の向こうに消えてしまった高崎を、まだ目で追うように立ち尽くしながら、由衣は心の中で何度も繰り返していた。
 その晩、由衣は、さっそく舞唯に報告の電話をした。電話の向こうの舞唯は、まるで自分のことのように喜んでくれた。
「ね!? 言っちゃって良かったでしょ? 特に今日なんか、あたし、そんなコトがありそうな予感がして、帰って来てからもずーっとお祈りしててあげたんだからねっ」
「ホントにぃ? お祈りぃ?」
「友達を疑ってはいけません。ホントです」
「だから……またジェラート、かしら?」
「まぁ、察しのおよろしいこと。今度はダブルでいただきますわ。なにしろ今、夏のニュー・フレイバーだっていって、いきなり三つもメニューが増えたのよね、あそこ」
「飛ばしてンじゃないわよ!!……って言いたいトコだけど、今日だけは許してあげるっ。明日うまくいったら、もっともっと許してあげるっ。
 舞唯、ホントに舞唯のおかげだよ。舞唯があれだけ言ってくれなかったら、私、今日だってどうしたらいいか、きっとわからなかったハズだもんっ」
「ふふふふっ。そう、あたしのおかげなのよ……あたしの、ね」
 最後の言葉だけ、舞唯は、ぞっとするような低い声で言った。だが由衣には、そんなことなど、まるで気にならなかった。ただ、
(明日の四時!!)
 そのことだけが、相変わらず頭の中に飛び回っていたのだった。

 翌日。
 登校した由衣には、授業が普段の何倍も長いものに感じられた。
 普段から、特に退屈な数学の授業などは、長く感じられるのだが、その日は、輪をかけて、数学教師の間延びした喋り方に、焦れた。
 実は昨夜、ほとんど眠っていない。もしかしたら寝不足のひどい顔になっているかもしれないと、朝、普段の倍は入念に洗顔をした。顔を洗ったからといって、たとえば本当に目の下に隈でもできていたら、どうなるものでもない。だが、それにさえ気づかないほど、由衣は舞い上がっていたのだ。
 ただ、舞唯は何故か欠席していた。休み時間に何度か携帯に電話してみたが、返ってくるのは乾いた合成音声の圏外コールばかりだった。
 一方クラスは、今日行われるサッカーの練習試合の話題で、もちきりだった。
 なにしろ、三年生が抜けたサッカー部同士の対決は、秋の地区大会の勝敗を占う一戦でもある。この学校のサッカー部はこれまでパッとしなかったのだが、今年は直樹を初めとして、優秀な部員が何人も揃っている。だから大会でも、かなりの好成績が期待できそうなのだという。今日の練習試合は、まさにそのリハーサルともいえる一戦なのだ。
 そんな話題から離れて、ただ一人でいる由衣は、その日だけ少し浮いた存在になっていた。
 直樹が、また、
「天宮ァ。今日、見に来てくれよなっ。キックオフは午後四時ジャストだからよっ」
 と声をかけたが、由衣は、それにも生返事で答えた程度だった。
 ようやく訪れた放課後。
 由衣には、授業が終わってから四時になるまでの数十分間が、授業の時間以上に長く感じられた。何度も腕時計を見て、何度もため息をつき、待った。
 あと十分で約束の時間になるという時、由衣は、待ちきれずに立ち上がった。
(いいわよね、少しぐらい早くたって。待たせたりしたら嫌われちゃうけど、早い分にはなんにも問題ないもんね。よし、行こう……もう行って、待ってよう)
 クラブハウスの前に立った時、由衣は、胸の奥がむず痒くなるようなときめきを覚えていた。
 校舎を挟んで向こう側にある校庭からは、サッカー部の試合を待つ生徒たちのざわめきが、何かの儀式の呪文のように聞こえてくる。
(残ってる子たちは、きっと、ほとんどが校庭を見てるんだろうな。だから今、ここに気持ちが向いているのは、私と高崎先輩だけ……私たちふたりきり、なんだわ)
 そう思うと、ますます由衣の胸は高鳴った。
 部室の鍵は高崎が持っているはずだから、まだ彼が来ていなければ、扉は開かないはずだ。
 由衣は、とりあえず、ドアノブをひねってみた。
 と、それはカラリと軽い音を立てて回った。
 開いているのだ。ということは……。
(しまった! 先輩、もう来てるんだっ。私、待たせちゃったの?……それって、思いっきりマズいよおっ!!)
 由衣は慌てて扉を開き、部室の中に入った。
(……?)
 入った由衣は、不思議に思った。
 部室の中が、真っ暗だったからだ。
 縦に長い部室は、その真ん中辺りにロッカーを壁のように並べて、二間に区切ってある。
 窓は奥の間の突き当たりにしかないから、明かりを点けなければ昼間でも室内、ことに入口周辺は暗い。しかも今は、どうやらその窓にもカーテンが引かれているようで、光はほとんど入ってきていなかった。つい今しがたまで眩しい夏の日差しの中にいた由衣には、一瞬、室内がまるで見えなかったほどだ。
 後ろ手で扉を閉めて、目を馴らす。と、奥の方から、かたり、と音がした。
(……なんの音?)
 よく注意すると、何だか室内の匂いが少し、変だ。
 高校生の汗には、独特の強烈さがある。スポーツ部の部室ともなれば、それは半ば饐えて、さらに強烈になっているものだ。だが、その時に由衣が嗅ぎ取ったのは、そういう匂いではなかった。
 もっと生々しく、濃密な匂い。
 匂いの元を確かめようと首を回した時、由衣は、また音を聞いた。今度の音は、無機的なものではなかった。明らかに、人の息の音だった。
 音は確かに、ロッカーの壁の向こう側から聞こえてくる。
 由衣は、ごくり、と唾を飲み込んでから、その奥の部屋に首だけを突っ込んでみた。
 瞬間、由衣は凍りついたように動けなくなった。

(続く)