かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

魔少女・由衣 闇狩り【#1】誕生−06

(承前)

 その日の深夜、由衣は、家族の目を盗んで家を出た。そして、少し離れた場所にある木立──まだ開発の手がさほど入っていない、やや深い森の奥に入って、作業を始めた。
 解読できた暗号の末尾には、
《悪魔を呼び出す者は、自らの魂を現れた悪魔に捧げなければならない。自らの命を以て悪魔の労働に報いなければならない》
 とあった。それはつまり、もし由衣が、悪魔の力を借りて舞唯たちになんらかの危害を及ぼしたなら、由衣の命も失われるということを意味しているのだろう。
 だが由衣には、それはもうなんの歯止めにもならなかった。
(舞唯と、高崎先輩に復讐する。そして、私も死ぬ。……それでいいわ。
 今は、これ以上、生きてること自体が、つらい。毎晩、あのことを思い出す日々が続くなんて、私には耐えられない。それだったらいっそ、あの二人に復讐して、私も……)
 ほどなく準備は整った。
 由衣は、作法に記されていた通り、着衣をすべて脱いだ。脱いだ服は、ていねいにたたんで傍らに置いた。
 まだ成熟にはほど遠いほっそりとした肢体が、細い月と星の明かりに照らされて、黒々とした木々の影の間にぼうっと浮かび上がる。それは、どこか幻じみて美しい光景といえた。
 由衣は、まるで覇気のない、いやわずかな意思の揺らぎさえ持ち合わせていないような動作で、魔方陣の中央に立った。そして手にしたメモを見ながら、呪文を詠唱する。
 すべてを唱え終わった後、しばらくの間、沈黙が続いた。
 何も起こらない。
 風ひとつ、起こるでもない。
 空が曇ることもなく、細い月は相変わらず淡い光を湛えたままだ。
(どうして? 私が方法、間違ったの? それとも……やっぱり悪魔なんていないってこと? あの紙に書かれていたことは、全部嘘っぱちだったっていうこと?)
 そう思った時。
 背後から、女の声がした。
「やっぱりそれを使ってくれたわね。待ってたのよ、ずっと。お役に立てて、嬉しいわ」
 由衣は、後ろを振り返った。
 舞唯が、やはり全裸で、立っていた。
「えっ……そんな……なぜ?」
 由衣の頭の中に、さまざまな疑問が飛び交った。これは舞唯のいたずら? 待っていたって、何を? 役に立つって? まさか……。
「まさか、悪魔って」
「ええ。悪魔っていえば、あなたぐらいの娘にはわかりやすいでしょ? だからそう書いてみたの。そして、あなたを見張ってた……あなたの“心”を。それを使う時が訪れるのを。
 そうよ。そうなのよ。それは、あたしよ」
 舞唯が、両手を拡げた。途端に、その背から、ばさ、と大きな音を立てて、巨大な翼が生えた。端から端まで五〜六メートルはありそうなその翼は、コウモリのそれによく似ていた。
「い……いったい、あなた……」
「教えてあげる。あたしたちは、ずっと人間の近くで暮らしてきた種族なの。ただし、人間たちにはあんまり姿を見せないようにしながら、だけどね。
 あたしたちは、いきものの心……精神といわれる部分を喰べて、生きてる。特に、人間の感情っていうものが、好き。
 だから人間たちからは恐れられ、時には敬われてもきた。
 時代により、国により、あたしたちはさまざまな名で呼ばれてきたわ。悪魔……も、そんな名のうちのひとつね。鬼。妖かし。時には、神とも呼ばれたみたい。
 どれもあたしたちの名前のひとつだし、どれも違う。本当は……うぅん、あたしたちの本当の名なんて、あたしも知らない」
「か……感情を……喰べる……?」
「そう。喰べるの。感情を。それがあたしたちを養う、唯一のものなの。
 ただ、たいていの感情は、あんまりおいしくないのよねえ。“この娘”の感情も、大したことはなかったわ。一番喰べ応えがあるのはね、どす黒い、卑しい感情なのよ──憎悪とか、恨みとかの。それも、普段が真っ白な、真っ直ぐな心に生まれたものほど、おいしいの。
 それにしても人間って奴は、弱いものなのよねえ。精神を失うと、死んじゃうのよ。肉体だけが生きていても、駄目みたいね」
 由衣はその時、突然思い出した。最近、急に死んでしまう者が増えた、という話を。新聞を見る限り、この近辺だけに集中して、ここ半年ほどの間に、かなりの人数が急死している。
 まさか、あれは……。
「そう、それは全部、あたし」
 思った途端に、舞唯がそれを言い当てた。
「え、ど、どうして……」
「馬鹿ねえ、まだ気づかないの? あの日、あなたに高崎くんへの告白をさせたの、誰だと思ってるの? 今日の昼間、あなたにあのファイルを棄てさせなかったのは誰だと思ってるの? どうしてあの高崎くんが、あなたの目の前であんなことできたと思ってるの?
 つまり、そういう能力も、あたしたちはもっているのよ」
 しゃべりながら舞唯の顔が、どんどん変化してゆく。あどけなさの残る普段の顔から駆け離れた、冷たく、恐ろしい表情に。
 ……いや、変わったのは表情ではない。顔の造りそのものが、次第に歪み、変わっているのだ。バランスを失い、遠近感を無視し、ひどく捩じれた、おぞましく不快なものへと。
「そう、憎悪はおいしい。でも、このところ世の中は平和でしょ? あたしたちが嬉しくなるような激しい憎悪なんてものには、滅多にお目にかかれなくなっちゃったのよねえ。だからあたしは、自分でそういう感情を、人に植えつけてみようって思ったの。こんなの多分、あたしが初めてよ。あたしたちの種族の中でも、きっと、あたしが初めて……」
 舞唯は言って、けらけらと笑った。それと同時に、彼女の全身が一気に異変をおこした。
 ざわざわと皮膚が波うち、あちこちが不自然に盛り上がって、肉の畝を造った。そしてその表面は赤褐色の鱗となって逆立ち、鱗の隙間からは、棘のように固そうな毛が、めりめりと音を立てて生え出た。それにつれて体は内側から膨れ上がり、見る間に三メートルにも近い巨体となった。
 舞唯の下半身と両腕、脇腹から背中にかけて起こった変化は、臍の少し上辺りで止まり、胸元から上にだけ、白いままの舞唯のかたちが残った。だが、その顔は醜く引き攣れ、コケティッシュな舞唯の印象は、豊かな乳房の他にはもはやかけらも残ってはいない。
 しゅうしゅうと蒸気の吹き出すような音が、舞唯の、いや、舞唯だったものの口から漏れている。それに合わせて、大きく横に裂けた唇の間からだらりと胸まで垂れ下がった真っ赤な肉塊──多分それは悪魔の舌なのだ──が、左右にゆっくりと揺れた。
「あんたは、あたしを呼び出した。自分の命が失われてもいいという覚悟でね。それだけあたしや高崎を憎んでいるのさ。ま、そう仕向けたのはあたしだけどね。さぞかし、あんたの精神(こころ)は……憎悪の感情は、美味いことだろうね。遠慮なくいただくわ。
 ねえ……誇っていいんだからね、由衣。あたしが植えつけたのは、あんたが最初なんだから。おいしくするために手間ひまかけたのは、あんただけなのよ。つまり、あんたの心には、歪ませるだけの価値があったってこと。
 白かったの。真っ直ぐだったの。だから、誇っていいのよ。選ばれたことを。
 そして、あたしも誇るわ。自分の計画がすっかりうまくいった、ってことをね」
 盛り上がった肩の肉に半ば埋もれた白い顔が、ぎーっと不快な音を立てながらおぞましく、ひと際激しく歪んだ。それは、醜怪な悪魔の、快哉の笑顔らしかった。
「そうそう、ついでといっちゃなんだけど、あんたが召喚を始めた時、あんたの家族も喰べさせてもらったからね。あんたン家は、つくづく平和だったんだねえ。あたしに対する恐怖や怒りの他には、まるで激しい感情がなかったよ。“この娘”の家族だって、内側には少しは汚らしい憎悪の類を、互いに抱きあっていたんだけどねえ。あんたの家族は、つまンなかった」
「わ、私の家族を? 喰べた!?」
「まあ、喰べるっていっても、あたしたちが喰うのは肉じゃない。精神ってやつだけなんだ。もっともあんたン家の連中は、あんまりにも喰べ応えがなさそうだったんでね。少しでも美味しくいただこうと、少々、からだの方も壊してやった。……そう、あれでちょっとは美味しくなったはずさ。あれだけなぶってやったんだからね、ふふふふふ」
「喰べた……なぶった!? 何を……何をしたっていうのよぉっ。父さんに、母さんに……タカに!! ひどい、ひどいよっ、ひど過ぎる!!」
「それもこれも、あんたがあたしを呼び出したせいだと思うがいいさ。
 憎みなよ、あたしを。恨みなよ。嫌いなよ。
 そうすれば、ますますあたしの食事は美味くなる。久々に満腹できるってものだわ」
「なんてこと……なんてこと……。あ、ぁあっ!?」
 由衣は、突然視界が真っ暗になるのを感じた。
 悪魔が、食事を始めたのだ。

(続く)