かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

魔少女・由衣 闇狩り【#1】誕生−07

(承前)

『さあ、喰わせてもらうよ』
 由衣の精神に向かって、舞唯の声が直接響いてくる。それは、聞こえるというよりも、舞唯の心が由衣の心に流れ込んできている、といった感じのものだった。
 由衣は、不思議な浮遊感覚を覚えていた。
 身体に、重みが、ない。
 視界は閉ざされていたが、肉体の感覚は残っていた。いや、ただ残っているというわけではなかった。指先はおろか、産毛の一本一本にまで神経がびっしり通っているかのように、あらゆる感覚が鋭敏になっている。
 だが、それにはまったく質感がなかった。ただ感覚だけが鋭くなり、本来そこにあるべき手応えのようなものが、まるでないのだ。もしも宇宙に出て、無重力の中に長時間放っておかれたとしたら、こんな風になるのかもしれない。
 悪魔の、軋れて耳障りな声が、由衣の心に流れ込んでくる。
『ふふふ……見ぃつけた。あんたのどす黒い感情を、見つけたよ。実に美味しそうだね、喰い応えがありそうだねえ……ふふふふ』
「あ、ひっ」
 由衣は、思わず声を漏らした。何かが、体に触れたのだ。それは最初、肩の辺りに点のように当たった。そしてその感覚は、一気に全身に広がっていった。
「な、なに? なんなのっ!?」
 由衣に答えるように、悪魔の声が響いた。
『あんたは今、心だけの姿になってる。そしてあたしは、今、あんたの心を喰おうとしている』
 鮮やかに尖った感覚が、由衣に、全身を包み込む異様な感触を、細部に至るまでくっきりと届けてくる。
 生あたたかく、ぬるりと湿った感触。屠殺したばかりの家畜の内臓に全身を包まれたら、こんな感覚を覚えるのかもしれない。由衣は、その感触のおぞましさに、吐き気を覚えた。
 その感触はまた、全体がさまざまなパターンで蠕動してもいた。粟粒を撒き散らしたような細かなざらつきが、てんでに震えているようなところがあった。あるいは幾百匹の蚯蚓が、群れをなして絡みついているようなところもあった。そしてそれら全体がゆったりと、大きくうねって蠢いていた。
 それは、確かに不気味で、耐えがたい気味悪さに満ちた感触だった。だが同時に、そう思う理性を軽く凌駕して、自身の意思とは無関係なところに直接訴えかけてくる、異様な快さ……そう、間違いようのない快感も伴っていた。
「あ……」
 思わず声を漏らした時、由衣は愕然とした。
 自らの声が、自分のものではないように思えたのだ。
 その声は、湿っていた。どこかで聞いたことのある湿り方を、していた。
『そうだろう? 憶えがあるだろう、その声に。ついこの間、あたしが聞かせてやった声だよ。憶えが、あるだろう?』
 悪魔に言われて、由衣は思い出した。そうだ、この湿った声は、舞唯が、いや、舞唯の姿をしていた悪魔が、高崎と番い合いながら漏らしていた声と同じだ。
「う、嘘……。私が、そんな……」
 その間にも、全身を包んだ感触が、微妙に由衣を揺さぶっている。否定しようとした声さえ、粘りを帯びていた。
『不思議なものでね。あたしたちが人間を喰う時──人間の心を喰う時、人間たちは、それを感じるらしいのさ。なんといえばお気に召すだろうかね? セックスの快感? 淫らな肉体の悦び?……獣に戻る刹那の恍惚?』
「そ……そんなの、感じない……あ……」
『遠慮することはないさ。感じるがいい。それとも、感じてしまう自分が嫌なのかい? それなら、それもいいさ。感じてしまう自分の情けなさを、憎むがいい。そんな感覚を与えるあたしを、憎むがいい。それがあたしの食事を、よりいっそう美味しくしてくれるのさ。……さあ、感じなよ。感じるがいい』
 蠕動が、いっそう激しくなった。
 感じる。感じている。あれほど嫌った、憎んだはずの舞唯たちの行為、その行為から得られるらしい感覚を、今、自分は受け取っている。そしてそれに、陶酔を覚えてしまっている。
(そんなの……やだ。イヤだ……)
 由衣は、必死で逃れようともがいた。だが全身を覆う生ぬるさは、どんな抵抗もやんわりと呑み込み、なんの手応えも返してはくれない。そして、甲斐なくもがき足掻く徒労の合間にも、痺れるような快感が、皮膚から奥へ、ずるずるとしみこんでくる。
 それは由衣にとって、完全に未知の感覚だった。本当にこれが、あの時、舞唯たちが味わっていたものなのだろうか。だとしたら自分は、自分も──そう思いかけて、由衣は、けれどもそれを、頭を激しく振って否定しようとした。
(違う、絶対に違うっ。こんなのが気持ちいいわけ、ないっ。でも!……でも……)
『いいね、いいよ……。拒絶するがいい。感覚を、自分の反応を、恨むがいい。ほら、あんたの中の黒い感情が、また膨れたよ。こんなに大きなのは、久しぶり……いや、初めてかもしれないねえ。くふふふふっ』
 頭の中に、悪魔の声が響く。
 由衣の全身に、熱っぽさが廻る。もはやそれは、否定しようもないほどに激しくなっていた。爪先までもを入念に愛撫されているような濃厚な感覚に包まれて、由衣は激しく痙攣した。
(やだ……いやだ、こんなの。こんな感じも、それに反応しちゃう自分も、いやだ。……い・や・だ……いや……や……)
 そう思う意識そのものが遠のき、消える……かと思った瞬間だった。
 急に、由衣の肉体の感覚が蘇った。
 目に景色が飛び込み、そして耳には、心に直接送り込まれるのではない、ちゃんとした音としての不気味な吠え声が届いたのだ。
「ぐおあ……がうおぅ……」
 その声が悪魔のものだということは、すぐに理解できた。
「お……おま、え、何を……何を、仕掛けた? これは……憎悪じゃないよ……憎悪そっくりなのに……違う、これ……喰えない、喰いきれない……呑まれてしまう、あたしが、この感情に呑まれてしまう……そんな……逆に、あたしが……あァたァしィがァ……!?」
 由衣の目には、乾いて消えかけた魔法陣の中央に、裸のままで倒れている自分自身の姿が見えた。それは、周囲の風景ごと、ぐらぐらと揺れている。
「こ……こんな……そうだ、食ってしまえ、お前を……お前の精神が喰われることに抵抗するなら、お前の肉体を……精神の器を、食ってしまえばいいんだっ。帰る場所のない精神が、永らえ続けるはずはない……食ウ、お前の体モ、食っテやるゥっ」
 揺れる視界の端に、ごつごつした腕が見えた。それは、由衣の白い肉体に向かって、真っ直ぐに伸びてゆく。
「あ、だめ、止めてっ。私に触らないで、手を出さないでぇっ!!」
「うるさいっ。食ってやルよ、お前の心も、お前ノ肉体も……全部、喰ッテヤルゥッ」
 赤褐色の手が由衣の肉体を掴んだ。力のない、人形のような由衣の裸体が、軽々と片手に持ち上げられた。爪が肉に食い込み、真っ赤な血が溢れ出て、白い肌を伝う。それでも由衣の体は、ぐったりとして抵抗の気配を見せない。
 その由衣の体が視界に近づいてくる時、ようやく由衣は気づいた。
(あ……これ、舞唯の、悪魔の目だ!! 私、悪魔の目で、今、景色を眺めてるんだ!!)
 そう、由衣の精神は今、悪魔の肉体に宿り、その感覚を悪魔と共有しているのだった。
 目のすぐ下まで運ばれた自身の体が、悪魔の両手で引き裂かれた。もがれた腕は、由衣の目の下……口へと、運ばれた。
「やだぁーっ!! 食べないで、食べちゃだめ、私を食べないでえっ!!」
「ぐがぁ……がふ、あぐ……」
 由衣自身の顎に、がりがりと異様な振動が伝わった。
「ああああっ……!!」
 顎から、生温かいものが滴り落ちる感触があった。それは、由衣の肉体から溢れる血の温もりに違いなかった。さっき感じた固い感触は、きっと骨を噛み砕いたものだろう。
 由衣は、自分が自分の肉体を食んでいると知った時、絶望的な恐慌に陥った。
 悪魔は、けれどそんな由衣の心には構わず、荒々しい仕種で由衣の肉体を引き千切っては、汚らしい音を響かせてそれを啜り、食らった。由衣はただ、絶叫を上げながらそれを見ているしかなかった。見たくないと瞼を閉じようとしても、悪魔がそれを開こうとしている限り、由衣は視界を閉ざすことすらできないのだ。由衣は、自分の肉体が、自分の感覚の中で砕け散ってゆくのを、ただ感じ続けているしかなかった。
「が、ぐ、まだ……マダ抵抗スる気か? こレダけ肉体を壊してヤッテモ……マダ……」
 悪魔の声が、耳元で怒鳴った。あらかた食い尽くされた由衣の肉体は、もうそれが元は人であったことさえわからないほどの、ぼろぼろの肉塊に変わり果てている。なのにまだ由衣は由衣として存在していた。うろたえて周囲を見回す悪魔の視界に、黒い小さな塊が飛び込んだ。
 由衣の、頭だった。
 体を食い散らかす途中でもげ落ちたそれは、向こうを向いて草の上に転がっていた。
「これか……これだな、きっトコレだ。コれも……こレモ食う……食ウ……」
「駄目ぇ……それは、それだけは、いやよぉッ」
 悪魔の手が、伸びた。指先がわずかに逸れて当たり、由衣の頭が、ごろりと転がった。
 その瞬間、由衣は、自分の死に顔をはっきりと見た。それは、生首であることが信じられないほど端整で、美しかった。
 それが見えた途端、ばちん、と大きな音がしたような気がした。
 再び、無限とも思える闇に心を取り巻かれて、由衣は意識を失った。
 意識が途切れる寸前、由衣は、巨大な獣の断末魔の絶叫を、確かに聞いた。

(続く)