かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

魔少女・由衣 闇狩り【#2】逃亡−01

(承前)

 由衣は、激しい熱気がたちのぼる、初夏の午後の国道を歩いていた。
 国道とはいえ、大きな道ではなかった。舗装こそされてはいるものの、片側一車線で、交通量はごく少ない。ところどころでは、歩道も途切れてしまう。
 身を包んでいるのは、お気に入りの白い半袖ポロシャツと、やはりお気に入りの白いキュロット。足は、履き慣れたナイキでくるまれている。これも白を基調にしたデザインだ。背には、藍色のデイパックを負っていた。
 その姿は、どこにでも見かけられる少女のものといえた。普通とは少し違うところがあるとしたら、この炎天下に帽子やサンバイザーの類を使っていないことと、背負っているデイパックがぱんぱんに膨れあがっていること、だろうか。
(……どこに行ったらいいんだろう)
 もう何度も繰り返した問いが、また浮かぶ。けれど答えは、見つからない。
 時おり、すぐ近くを車が通り過ぎて行く。
 由衣はそのたびに身を縮め、顔を背けた。
 車から押し寄せる熱風や、車輪が巻き上げる埃がうっとうしかったせいもある。けれど、それよりも由衣は、自分を見つけられてしまうことを恐れていた。
 家から、とにかく離れなければ。あの町、自分の住んでいた町から、できるだけ遠ざからなければ。それも、極力人目につかないようにしながら。今の自分にできること、しなければならないことは、それしかない──。

今日の夜明け、自身が悪魔になりかわってしまったと気づいてから、由衣は、どれほどの間泣き続けただろうか。
 獣の体をしたまま、自身の首を両手に捧げ持って。
 喉から、獣のおめきにしか聞こえない嗚咽を漏らしつつ。由衣はひたすら、泣き続けた。
 さんざん泣き、激情を維持する気力が枯れると、やがて頭の中は逆に、普段よりもよほど乾き、冴え冴えとしてくるものだ。その時の由衣も、そうだった。由衣の思考は、次第にかたちを取り戻し始めた。
醜く大きな、新しい自分の手の中に、かつての自分自身の首がある。
 その表情は、ごく安らかだった。
 血の気を失い、白蝋のように半ば透き通った色をしたそれは、既に命を失っていることが信じられないほどに静かな表情をして、ただ沈黙し続けていた。
 自分の顔だ。普段ならあれこれと不満を覚えもしただろう。もう少し鼻筋が通っていたらとか、もう少し目尻がきりりとしていたらなどと、自身の顔だからこその遠慮ない文句が出る。
 だがその時は、自分の顔だからこそ──だったからこそ、それがきれいだと思った。可愛いと思った。
 自分の顔だったのだ。これが、自分の顔だった。今の自分の顔は見ることができない──見る気にもならないが、それがどれほど醜悪かは知っている。この世の、自身が知る限りのどんなものよりもおぞましい獣の顔なのだ。今、手の中にある顔とは、比べられるはずもない。
 この顔だったのだ。この顔が、自分の顔だったのだ。
 由衣は両手に捧げ持った首を、覗き込むように見つめながら、強烈に思った。
(戻りたい!! この姿、本来の私の姿に……悪魔なんか呼び出す前の私に、戻りたい!!)
 その瞬間だった。
 言いようのない感覚が、全身に走った。
 筋肉のひとすじひとすじが、毛の一本一本が、みな勝手に動きだしたのかと思えた。内臓もまた、溶け始めたようだった。肉体を構成するすべての物質が、ざわざわと騒ぎながら、皮膚の下で緩やかに蠢動する。
 それはやがて、くすぐったさにも似た快さを伴って、次第に一つの方向へまとまり始めた。そして、目が眩み失神しそうな甘い痺れが全身を満たした時、由衣は、景色が一度溶け、しゅうん、と大きく膨らむのを感じた。
(……なに? 私に、何が起きたの?)
 視界が、悪魔の巨体から見下ろしたものではなくなっていた。自分の首を捧げ持っている手が、鱗と剛毛に覆われて節くれ立った悪魔のものではなくなっていた。それは少女の、滑らかで小さなものに戻っていた。
 由衣は、慌てて自分の体を見た。小振りだが丸い乳房も、その上に乗った淡い色の乳首も、縦長に窪んだへそも、腿の太さが少し気になってはいるが、全体としてはすらりとしたお気に入りの脚も、すべてが自分の──本来の自分のものだった。
 少しの間呆然としてから、由衣はやっと気づいた。
(これって、……そうなのか。ちから、なんだ。悪魔の、能力)
 そういえば、由衣を破壊した悪魔も、最初は、友人の姿をしていたではないか。
 つまり、強く念じれば、その姿を得ることができるということか。由衣は、今さらながらに、悪魔と呼ばれる化け物が持つ能力の凄さに驚いた。
 姿を取り戻した由衣は、改めて手の中にある、人間だった頃の自分の首を眺めた。
 相変わらずそれは、冷たい可愛らしさを湛えて、無表情に目を閉じている。
 考えてみれば、自分の顔など、鏡越しにしか見たことがない。こうして直接に、間近で見るのは初めてだ。それは今は、無機的な残骸に過ぎなかったが、けれど限りなく愛しかった。
 由衣は、無意識のうちにそれに唇を近づけていた。
 すっかり渇いて、冷たく、硬くなってしまったその唇に、由衣は、自分の唇を重ねた。
(ごめんね。私がわがままなばっかりに……弱かったばっかりに、こんなことになっちゃって。
 十七年間一緒に暮らしてきて、楽しかったんだよ……本当に。大好きだった。今もやっぱり、好き。でも、もうお別れなんだね。ごめんね、そして、さよなら……私。人間だった、私)
 由衣は、自分の首から、ゆっくりと唇を放した。
 銀色の唾液の糸がすっと伸び、それがすぐに切れた時、彼女は、そっとその首を地面に置いた。
(帰ろう。家に、帰ろう。どんなことになっているかわからないけど、とにかく、見に行かなくちゃ。……私の家がどうなったか、見届けなくちゃ)
 由衣は、できることなら、鳥のように空を飛んで、すぐに家まで帰りたいと思った。
 その時、背中に、再びあの甘い痺れが走った。
 あ、と思った時には、ばさり、と大きな音とともに、由衣の背に大きな翼が生まれていた。
 それは、昨晩悪魔が見せた、こうもりの翼に似た恐ろしげなものではなく、白い羽毛に包まれた、柔らかなものだった。
 由衣はその翼を振り返り、不思議な感動を覚えながら、思った。
(これも……能力、なんだ)
 由衣は、背に力を込めた。翼はゆっくりと、だが力強く羽ばたいて、彼女を宙に舞わせた。
 そのまま由衣は、森の木々の葉の隙間を抜けて、空高く飛翔した。
 眼下の、血の飛び散った惨劇の跡が、見る間に小さくなる。由衣は、もう一度目を閉じ、自分の残骸に詫びてから、自分の家を探した。
 それは、斜め下方に小さく見えた。
(誰にも見つかりませんように!!)
 由衣はそう祈りながら、家に向かって一気に降下した。二階の、自分の部屋の窓際まで下りた由衣は、そのまま空中で器用に翼をたたみ、それを再び肉体の中に収めて、開けられたままの窓から室内に入った。
 自分の部屋には、これといって変わりはなかった。その時になって由衣は、自分が全裸であることをようやく思い出し、急に恥ずかしさを感じた。
 クローゼットから服を取り出して、着る。
 そのまま姿見に向かっても、昨日までの自分と何ら違いは見いだせない。かなりの安堵を覚えて、由衣は、部屋のドアを開いた。その刹那、
(!!)
 由衣は、吐き気を覚えた。
 廊下に、大きな血溜まりができていたのだ。
 由衣は、悪魔の言っていたことを思い出した。
『あんたが召喚を始めた時、あんたの家族も喰べさせてもらったよ……少しでも美味しくいただこうと、少々、からだの方も壊してやった』
(これ……きっと、そうだよね……)
 由衣は、その血溜まりを慎重に避けながら、それが続いている隣室へと向かった。そこは隆の寝室だ。
 開いていた扉の奥を覗いた由衣は、よろめいて背後の壁に体をぶつけた。
 肩口から臍の辺りまでを引き裂かれ、妙な形に捩じれた隆の屍体が、そこにはあった。
 隆の表情は恐怖に歪み、乾いた涙の跡が顔中に白い粉となってへばりついていた。
(ごめん……ごめんね……)
 由衣は、嗚咽の漏れる口を両方のてのひらで押さえ、ゆっくりと、体を壁に半ば預けながら、よろよろと階下に下りた。

(続く)