かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

魔少女・由衣 闇狩り【#2】逃亡−02

(承前)

 階段の途中には、母親の屍体が転がっていた。
 うつ伏せになったその背中には、大きな、骨ごと肉を削り取られたような傷痕が、三つも残っていた。顔は見えなかったが、見る気にもならなかった。
 居間には、脚を投げ出し、壁に寄り掛かって座った姿勢で、父親の屍体があった。
 片手には、折れ曲がったゴルフクラブを握りしめている。ゴルフクラブの先端には、破れたキルティングのカバーが、しがみつくようにぶらさがっていた。彼が、家に突然現れた異形に向かって、渾身の、だが相手にとってはごくささやかな抵抗を試みた証に違いなかった。
 それに対する悪魔の怒りか、それとも力無き者への侮蔑の仕業か、父親の体は一番ひどく傷つけられていた。目から、鼻から、口から、血が染みだしていた。
 それはすっかり凝固し、黒っぽい塊になって、顔中を汚している。母や隆に残っていた大きな傷痕とはまったく種類の違う、細かく浅い幾つもの傷は、彼が意識を失うまでに味わった激烈な痛みを、はっきりと物語っていた。
 その父親の骸の、見開かれたままの目には、無念と絶望の色があった。
由衣は、声を上げて泣き出していた。
 すべては、自分が悪魔などを呼び出す気になったばかりに起きてしまったことなのだ。自分がもう少し強くありさえすれば、起こらなかったことなのだ。そのどうしようもない悔恨が、由衣を激しく責めたてていた。
 突然、陽気なロックンロールが聞こえた。
 由衣は我に返り、泣くのをやめた。
(あ……隆のオーディオタイマーだわ。あの子がいつも、目覚まし代わりにかけてる曲だ。……そうか、もう、そんな時間なんだ)
 由衣は、決意した。
 天宮家の人間は、自分を含めて、皆、死んでしまった。だから自分が、天宮を知る人間の近くにあってはならない。
 自殺──というよりは自身という存在の根本的な消滅──を選ぶことも、考えなくはなかった。だが、それができるとは到底思えなかった。
 この体、“悪魔”の体を、どうすれば消すことができるというのだろう。
 どんな力を秘めているか、まだすべてはわからない体ではある。だが少なくとも、人間並みの方法で消せるものとは思えない。
 今、確実にできることは、遠ざかることだけ。
 それが由衣の得た結論だった。
 もう、ここにいることはできない。学校へも行けない。どうすればいいのかはわからないけれど、とにかくここから遠ざからねばならない。
 そして、二度とここへ戻って来てはいけない。
 逃げて、逃げて、逃げ続けるしかない。
 由衣は、散乱したガラスの破片や、飛び散った血の染みを踏まないように部屋の端を歩き、居間の隣にある父母の寝室に向かった。
 そこには、幾らかの現金があるはずだった。
 逃げ続けるには、相応の資金が必要だ。だが、遅かれ早かれ、この家には警察の手が入るだろうから、預金通帳の類は使えまい。それなら、今、手にできる現金だけが唯一の頼りになる。
(とにかく、ここから出なくちゃ。それも、できるだけ急いで)
 十数万円の現金を手にした由衣は、玄関に寄って靴を取ってから、再び自分の部屋に戻った。
 デイパックに着替えや身の回りの品を詰められるだけ詰め込み、窓から下へ飛び下りた。
 門を開き、道路に出た由衣は、一度だけ、振り返った。
 家は、中の惨状が嘘のように静かに佇んでいる。けれどそこは、もう由衣の戻れる場所ではないのだ。
(さよなら……さよなら。父さんも、母さんも、タカも……そして、私も。さよなら!!)
 由衣はもう、後ろを見ずに走った。
 いや、見なかったのは後ろだけではない。この先のことも、だった。
 由衣は、どこへ行こうという当てや何かをしようという気持ちももたず──もつことができず、ただそこから逃げ出したのだった。

(……どこに行ったらいいんだろう)
 由衣は、歩き続けていた。
 太陽は、だいぶ前に中天を通り越している。西寄りになった初夏の太陽は、昼頃よりもよほど強烈な熱と眩しさを、そこら中に振り撒いている。
 だが由衣は、汗ひとつかいてはいない。
 確かに、日差しの暑さは感じている。家を出てからずっと歩き続けてもいる。だが、汗もかかなければ疲労もなかった。感覚だけがあり、肉体の反応がないのだ。
 由衣は立ち止まり、ポロの半袖を少しめくりあげてみた。布に覆われていた肌と、今し方まで日に晒されていた肌の間に、色の差はない。
(これだけずっと太陽の真下を歩いているのに、日焼けもしないんだ……。日焼け止め、使ってなくても)
 由衣は、つい一昨々日のクラブの練習を思い出した。あの日由衣は、校庭へ出る前に、チューブ入りの日焼け止めをてのひらに取り、腕と足へ入念に塗り込んだのだった。
 日に焼けること自体は、嫌なことではなかった。けれども、体操着から出た手足だけが焼けるのは、困る。夏になって水着を着る時、様にならないではないか。だから六月頃から、由衣はずっとその日焼け止めを使っていた。それでも最近、日ごとに手足が焼け始めているのが、とても気になっていた。
 練習をしている時には、ほんの少しラリーが続いただけで、汗が滝のように流れ落ちた。ヘアバンドを搾れば、吸い込まれていた汗が、じゅっと音をたてて滴り落ちたほどだ。
 その時は、汗などかかなければいいのに、と思っていた。目に入ればしみるし、時間が経てば独特の甘ったるく湿った匂いを放ち始める。体を動かすことは好きだが、それで流れ始める汗を、由衣はどうも好きになれなかった。
 だが今となっては、日焼けすることが、汗をかくことが……そういう当たり前のことが起きる肉体が、懐かしい。ごく当たり前の反応を見せる、ごく当たり前のひとの体が羨ましい。
 由衣は俯き、首を横に振った。そしてポロの袖を戻し、また正面を見て歩き始めた。
(今はそんなこと考えるより、もっと遠くへ行かなくちゃ。遠くへ、早く、行かなくちゃ。離れなくちゃ。ここじゃないところ──どこだかわからないけれど、私が居られる場所へ)
 けれども由衣には、それがどこなのか、どんな場所なのか、見当もつかない。ただ、行かなければ、という気持ちがあるだけだ。
 ひどい焦りと、疎外感があった。
 この世に、自分を……今ここに在る自分を知ってくれているひとは、ひとりもいない。
 そんな自分が居ることのできる場所が、本当にあるのだろうか。いや、こんな異様なものが存在を許される場所が、そもそも、この世界にあるのだろうか。
(まるで幽霊ね。もうこの世にはいないのと同じなのに、いる、なんて)
 幽霊、という言葉を思いついて、由衣はふとおかしくなった。
 自分は死んでいるのか? 違う。明らかに生きている。生きて、ものを思いながら、体を動かしている。歩いている。生きている。
 幽霊ですら、ないのだ。
 生きている。
 けれど、生きているという実感は、まるでないではないか。
 生きているという実感──それが何だったのか、今の由衣にはよくわかった。
 それは呼吸すると喉を擦っていく空気の感触であり、ありがたみだ。知らないうちにも全身を巡っている血流と鼓動の、確かな必要性と存在感だ。動けば疲れ、暑ければ汗をかき、歩けば痛くなる足や節々の感覚なのだ。
 自分でも知らない間に反応し、自律し維持される肉体から湧き起こる感覚の数々。それが、生きているという実感なのだ。
 今の由衣は、なるほど、呼吸はしている。心臓の鼓動もある。けれどもそれは、忠実に再現された人間のかたちの一部でしかない。
 今ある鼓動も呼吸も、ただの飾り物でしかないことに気づいたのは、家を出てしばらく走った後のことだ。
 気がつくと由衣は、二十分近くも全力で走り続けていた。それなのに由衣は、それで息が上がって動けなくなることも、心臓の拍動の激しさに苦しさを覚えることもなかった。
 由衣の体の中にある呼吸も拍動も、あくまでかたちだけのもの。人間の備えた機能を真似てみただけのもの、に過ぎないのだった。
 もちろん五感は、ある。見えるし、聞こえる。空気の匂いもわかるし、触れれば感触が、食べれば味も感じられることだろう。
 けれどそれらの感覚はすべて、周囲の事物の状態としてしか受け止められてはいない。
 肉体に影響を及ぼすもののデータではなく、周囲がそうであると認識するためのデータ。それを集めるためだけのものとして、感覚がはたらいているのだった。
 おそらくもう、体をとことん使った後にひと舐めするジェラートの味も、甘く冷たいものとわかりこそすれ、おいしいとは思えないのに違いない。体がそれを求めないからだ。
 それでも自分は、今、生きている。間違いなく、生きている。
(いったい、生きてるってどういうことなんだろうな。今までそんなこと、じっくり考えたこともなかったな……)
 由衣は思い、そして心の中で幾度めかもわからない深いため息をついた。
 しばらく前から由衣には、疲れない体がひどく恨めしく思え始めている。
 ひとであれば、歩き続けることで肉体が疲れてくるものだ。その疲れはやがて心にも達し、やがて何も考えられなくなれる時間が訪れる。けれど、肉体の束縛を失った心には、いつまで経ってもその時間が訪れてはこないのだった。
 歩いても歩いても、視界が濁らない。
 むしろ頭の中が、ますます鮮明になってゆく気がする。
 そんな状況での考え事ほど、つらいものはなかった。考えることをやめたくても、やめるきっかけが見つからないし、やめた後にすることもない。
 だが、十七歳の少女のもつ思考の材料は、やはり十七年分のものでしかない。考えはすぐ底に当たり、新たな材料を求めて引き返す。引き返すが、再び同じ道程を辿って、同じ底に辿り着く。その息苦しさに耐えかねて、思考はまたスタート地点へと戻る。
 その無限のループが、次第に由衣の心からも現実感を奪ってゆくのだ。苦しさだけが増幅され、心が喘いでいる。揺れている。破裂しそうになっている。もし今、目前に、遠ざからねばならないという具体的な目的がなければ、由衣は立ち止まって叫び出しているかもしれない。
 いつの間にか太陽はかなり西に近づいていた。
 と、後ろから由衣を追い越していった車が、由衣の十メートルほど前で止まった。

(続く)