かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

魔少女・由衣 闇狩り【#2】逃亡−03

(承前)

 白い軽トラックだ。
 幌の張られていない荷台には、巻き上げられて丸太のようになった大きなカンバスが、ごろりと投げられている。前後両端に近い場所を縄で括られたそれは、巻き上げ方がルーズなのか中ほどが膨らみ、ひとつずつ紙に包まれたキャンディを思わせるかたちになっている。一番太いところで、その直径は一メートル近くもありそうだ。その横には、スコップや鍬などの農具が、無造作に載せられていた。
 立ち止まり顔を背けた由衣に、運転席から降りてきたひとりの男が声をかけた。
「カノジョ、どこから歩いて来たの? どこまで歩いて行くの?」
 由衣は目だけを滑らせ、ちらりと車のナンバーを見た。少なくとも、天宮家があった辺りを、しばしば走っている車のものではない。
 由衣はそっと顔をあげて、男を見た。これも見覚えのあるものではなかった。
 人懐こい笑顔の、若い男だった。
 齢の頃は、二十代半ばといったところだろうか。灰色のワークパンツに白いTシャツ。今時には珍しく、短い髪には脱色や染めがない。肌の、わざとらしさも厭味もない浅黒さが、男の送っている日常を表しているようだった。
「この先しばらくは、休むとこ、ないよ。後ろの方にもなかったからね、もうずいぶん歩き続けてるんでしょ」
 立ち止まった由衣に、男はにかっと笑って見せた。白い歯がずらりと壮観に並ぶ。
「なんだったら、どっか人が増える場所まで、送ってってあげるよ。この道、真っ直ぐ行くつもりなら、だけどね」
 由衣は躊躇した。
 もちろん、車で移動すれば、距離は早く多く稼ぐことができる。だが、うっかりそれで“天宮由衣”の足跡を残してしまってはならない。そう思って由衣はここまで、電車を使うことも避けてきたのだ。
 もっとも、もう家からは何十キロも離れているはずの今、ここで、偶然に出会った男の好意に頼る分には、足跡を残す不安はほとんどないだろう。とはいえ、だからといって、それに安易にすがってしまっても、いいものなのだろうか。
 それに……。
 由衣の逡巡をどこまで見透かしたのか、男は両手を拡げるようにして言った。
「大丈夫、カノジョには俺、変なこと考えたりしていないからさ。まあ、無理にとは言わないけど」
 由衣には確かに、彼が悪い男とは思えなかった。けれど、
「でも、私が……私の方が、悪いものかもしれません」
 それが本音だった。
 自分自身が、自分自身を把握していない。
 まず第一に、能力の問題があった。
 自分に何ができるのか、由衣にはまだわからない。体のかたちを変えることはできるらしい。それを応用して、空を飛ぶこともできた。疲れることもない。きっと、それ以外にもいろいろな能力があるはずだ。
 だが、元の姿に戻ることも、翼を得ることも、由衣の想像の範囲を越えていた。そんなことができるとは思ってもいなかったのに、できてしまった。
 同様に、この体にはまだ自分の知らない能力があるに違いない。
 それが暴発してしまったら……そんな危惧を由衣は、半ば本能的に覚えていたのだった。
 それに、心──この体を操るものの主体──についての不安も、由衣は、感じていた。
 今は自分でいるが、もしかしたら“悪魔”はこの体の中で眠っているだけで、いつか目覚めるものなのかもしれない。ある一瞬に、この体の本来の持ち主であった悪魔は目を覚まし、由衣は今度こそ喰われてしまうのかもしれない。
 そうなった時には、この男も無事では済まないだろう。
 巻き添えには、できない。したくない。
 いや、悪魔が目覚めなかったとしても、あるいは自分自身が、この借り物の体に引き寄せられて、悪魔になってしまうかもしれない。
 今の自分を自分にしているのは、この心だけなのだ。けれども、それに対して由衣は、どうしても自信をもつことができないのだった。
 自分の心など、いつ揺らぎ変わるものなのか、わからない。肉体という裏打ちがない心、そのゾッとするほどのあやふやさ。本来の肉体を失ってしまって、由衣は、初めてそれに気づいた。心は、それのみで成り立つものではなかった。器としての肉体とのやりとりがあってこそ、しっかりと在り続けられるものだったのだ。
 男には、けれども、そんな由衣の不安はさすがにわかるはずもなかった。ただ、由衣の言葉、『私の方が、悪いものかもしれません』という言葉だけが、よほど印象に残ったらしい。
 男は眉を八の字に寄せると、たはははは、と漫画のように笑って、言った。
「そうなの? カノジョ、悪者なの? 俺にはそんな風になんか見えないけどなあ。まあ、でも、本当に悪者だったとしても、その時は俺が間抜けな田舎者だからいけなかった、ってだけのことだよ。さ、乗りな」
 男は車の向こうをぐるりと回り、助手席のドアを開いた。軽自動車らしい薄い扉が、きしり、と軽い軋みを鳴らした。
(……いいのかな……)
 由衣はもう一度、自分に問い掛けてみた。
 本当に大丈夫なのだろうか? このひとも、自分も。
 男はもう運転席に乗り込んでいる。
 由衣の頭に、今し方男が見せた笑顔が浮かんだ。屈託のない笑顔だった。
 あんな風に笑えるひとのそばにいたなら、能力を使う場面など訪れないかもしれない。自分が揺らぐこともないかもしれない。
 それに、今、ここで断ってしまったら、この先、もう二度と頷くことができなくなってしまうかもしれない。居場所を見つけるどころか、探すことさえできなくなってしまうかもしれない−−
「じゃ」
 由衣は車に歩み寄った。そして、開かれた助手席のドアの外側から、中の男に向かって、ぺこりとお辞儀をした。
「お世話になります」
「うん、うん。そうこなくちゃね」
 由衣が乗り込むと、男は、嬉しそうに頷いて車を発進させた。

車が走りだしてすぐ、男は訊ねてきた。
「名前、なんていうの?」
 やはり訊かれた、と思った。
 答えられない。由衣は早くも、乗り込んだことを後悔した。
 本当のことを言うわけにはいかない。かといって、すぐに偽名を思いつけるほど、由衣は慣れてもいなかった。
 だが男は、由衣の沈黙に何かを感じ取ったらしい。意味もなく、ははは、と乾いた笑い声を立てると、言った。
「いいよ、名前なんか。話しかけるのにちょっと不便かな、って思っただけだから。俺みたいな間抜けな田舎者に名乗る必要なんか、カノジョ、にはないもんね」
 由衣は慌てて答えた。
「あの、そんなつもりじゃなくて、ええと、間抜けとか田舎者なんて、私……」
 名前。名前。名前。……そうだ。
「ユミ。ユミです」
 たった一文字の違いではある。だが今の由衣には、それが限界だった。
「そうかー。ユミちゃんかー。可愛い名前だね。それ、漢字でどう書くの?」
「ユミ……ユ、は、ええと……幽霊、いいえ、幽玄の幽で、ミは、実るっていう……」
 幽霊のようなものなのに実在している。言ってから由衣は、自分に相応しいと思った。自虐めいたおかしさが、由衣の顔に却って自然な笑みを浮かべさせた。
「幽実? 珍しい名前だなあ。面白いねえ」
 面白いとは言ったが、男の表情には、由衣とは対照的な曇りがかすかに浮かんだ。由衣が偽名を名乗ったということが、わかったのだろう。素直に名乗ってもらえなかった、そのことが男への刃となって、男の気持ちをむしろ削った。そんな表情の曇り方だった。
「俺はね……いや、いいか。俺の名前なんかに、興味、ないよねえ。いいんだ、それで。俺、そういうタイプだからね。うん。俺はそういうタイプなんだ。名前なんかいらない」
 男は早口で呟き、黙り込んでしまった。
 由衣は何かとても悪いことをしてしまったような気がして、何か話しかけようとした。けれど、何を話していいかわからない。それに、うっかり口を開いたら、“天宮由衣”の地金が出てしまいそうでもあった。
「大丈夫、そんなに緊張しないでいいから。ずっと歩きづめで、疲れたんじゃない? 休んでていいからさ。俺は平気だから」
 男は言い、それきり口を開かなくなった。

(続く)