かどいの『I'm in Rock!-Ⅱ』

ある文筆業者(分泌業者ではない)の生存証明。基本的に毎日更新。

魔少女・由衣 闇狩り【#2】逃亡−04

(承前)

 車は古いのか、かなり揺れた。だが男の運転はていねいで、それを充分にカバーしていた。男の、少し時代遅れな生真面目さや不器用な優しさが、そのまま表れたような運転だった。
 男の寡黙さは、その理由を思う時、決して居心地のいいものではなかった。けれども、身元を探られたり、あんな場所を歩いていた理由を訊ねられたりしたらどうしよう、と思っていた由衣には、それは確かにありがたいことだった。
 車は延々と走り続けた。途中、幾つかの町や集落を越した。そのたびに男は、「ここで降りるか?」と訊ねた。由衣はそのたびに、首を横に振った。
 景色の流れが、心地よかったからだ。
 歩くペースには、不思議と物事を考えさせるリズムがある。だが車の窓の外を通り過ぎていく景色には、逆にそれを抑えるものがあるらしい。
 由衣は、木々の勢いある緑色が次から次へと視界に飛び込み、また飛び出ていくのを、本当に無心に眺めていることができた。
 それでも、初夏の遅い日暮れを迎える頃には、由衣は、迷い始めていた。
 乗り込んだのは多分、午後五時を少し過ぎた頃だ。それが今は、時折現れる道標の青看板の文字を読むのも難しい暗さになってきている。
(いったいこのひと、どこまで行くつもりなんだろう)
 由衣はちらりと、男の横顔を窺った。
 このひとの用事がある場所、このひとが引き返す必要のある場所にまで着いたら、そこで降ろしてもらうつもりだった。
 けれども男は、何も言わずにただ国道を真っ直ぐに走り続けている。
 いったいこのひとは、私を乗せて、どこまで行くつもりなんだろう。
 往生際の悪い初夏の太陽も、もう山の端に身を隠した。おそらく、残光が完全に消える前には、次の町なり集落なりに着くだろう。
(よし。決めた)
 由衣はそれがどこであっても、そこで降ろしてもらうことにした。
 その途端だ。
 それまで、真っ直ぐに国道を走っていた車が、急に交差点を曲がった。
 特に、どこかへ向かう表示看板が出ていたわけでもない。本当にただぽつねんとあった交差点だ。周囲はすでに薄暗くてよくわからないが、おそらくだだっぴろく畑や空き地が広がるばかりの場所だった。
 由衣は男の顔をちらりと見た。
 無表情は相変わらずだったが、少しだけ目つきが険しくなっている。暗くなった道をしっかり見るために、という険しさではない。男の内側から湧きだす何かが、隠しきれずに溢れたような険しさだ。
 道は平地を突っ切り、いつの間にか舗装も途切れて、砂利敷きになっていた。景色はどんどん暗くなり、車はさっきまで遠くに見えていた山の裾に取りついている。
 おかしい。
 これは、普通じゃない。
 さすがに由衣も気づいた。辺りには、人家どころか車の影さえ見当たらない。
 由衣はおずおずと口を開いた。
「……あのぅ」
 男がブレーキを踏んだ。車はすっと路肩に寄り、停まった。
 由衣は、わずかに身を後ろに退いた。男は真っ直ぐ前を見たまま、まったく表情を変えていない。その無表情さに、異様な圧力を感じたのだ。
「……なんで、降りてくれなかったんだよ」
 男が、ぼそりと呟いた。
「可愛い子だな、って思ってさ。きっといい子だな、って思ってさ。本当に、町まで送ってって降ろすつもりだったんだよ。だけど、こんな遠くまで……こんな遅くまで、騒ぎもしないで乗っててさ。そしたらやっぱ俺だって、そういう気分になっちゃうじゃん?」
 男はイグニッションに手を伸ばし、キーをひねった。エンジンが、ぶるる、とくどい振動を残して止まった。
「……まあ、でも、そういうこと、なんだろ? あんたもさ。あんな時間にあんな場所、ひとりで歩いてるのって、やっぱ何か事情があるわけじゃん? 俺なんかの車に乗るのって、何か事情があるわけじゃん? 少なくとも、家に帰るつもりは、ないんでしょ? そういうつもりで降りなかったわけでしょ?」
 男がゆっくりと由衣の方を見た。
「そういう、つもり、って……」
 由衣は身を強張らせ、さらに退いた。だが、狭い車内のことだ。すぐに背がドアに当たり、それ以上の後退を阻む。
「女の子が帰らないってことは、それでオッケー、ってことなんでしょ?」
 男が由衣にゆっくりと手を伸ばしてきた。
 指先が、剥き出しの腿に触れた。
「い、いやぁっ。離れて! 触らないで!」
 両腕を胸の前に交差させて、由衣は叫んだ。男は体を真っ直ぐに由衣に向け、由衣のその両腕を掴んで、怒鳴った。
「あんたもか!? あんたもなのかよ!!」
 がくがくと由衣を揺すりながら、男がまくしたてる。
「あいつも……あの女もそうだったよ! 馬鹿にしやがって、俺を馬鹿にしやがって。男じゃないとでも思ってるのかよ? そういう状況になったら、そういう反応をするのが男ってもんだと、知らないとは言わせねえよ!」
 男の目が、かっと見開かれていた。
 その目には、激しい感情が宿っている。なんと表現したらいいのかわからない、暗く、激しい感情だ。
「あ、あ……」
 由衣はその目の色に怯えた。
 追い詰められたくなかった。追い詰められたら、自分が何をしてしまうか……なにができてしまうか、わからない。
「やめて……やめて」
 かすれる喉から、どうにか由衣は、それだけの言葉を送りだした。
 だが男は、その声にむしろ煽られたようだった。
「やめて、だと? 今さら……今さら、お前の言えることか!?」
 男の、由衣の腕を握る力がいっそう強まる。
「そうさ、あんたを降ろしたら……あんたが降りてくれていたら、あいつだけが特別だったんだ、って……俺の方が悪かったんだ、俺が間抜けな田舎者だっただけなんだって思って、ちゃんと償うつもりだったんだ。賭けだ、そうだよ賭けだったんだ。
 でもあんたは、降りてくれなかった。あの女と同じだった。
 ってことは、女はみんな同じなんだ。どいつもこいつも、同じだってことなんだ。それだったら、俺は悪くなんかない。俺を馬鹿にする女の方が悪いんだ。だから俺は償ったりしなくていい、あんなものこっそり棄てちまって素知らぬ顔してればいいんだ。そして、そして、これからも、何度だって何人だって、同じことをやっていいんだ!」
 男はひと息に言って歯を剥き出し、由衣を引き寄せようとした。その顔が一瞬、ぐにゃり、と異様に歪み、溶けたように見えた。
 その顔のおぞましさに、由衣は思わず瞼を閉じた。途端に、腕に伝わってくる力が何倍にもなったように感じられて、恐怖が、由衣の心の中で破裂した。破裂した恐怖が、口から悲鳴になって迸り出た。
「やめてぇーッ!!」
 その瞬間、男の手が由衣から離れた。そして由衣は、奇妙な音を聞いた。
 めき、という音。ばん、と何かが叩きつけられる音。ゴリゴリッと硬い物が擦れあい軋む音。
 由衣はそっと目を開いた。
「う、そ……」
 たった今、由衣の腕を握りしめていた男の手が、ねじくれておかしな方向を向いていた。
 男の体は、見えない何かに圧されてでもいるように、運転席側のドアにへばりついている。
 男は血走った目をまん丸く見開き、半開きになった口から舌を突き出して、ぜえぜえと苦しげな息を吐き出している。
「な……なんだ? お前、なんなんだ?」
 男はどうにか言い、体を捩り起こそうとした。だが圧力はとてつもなく大きなものらしく、その抵抗はわずかな成果も得られない。それどころか圧力は、次第に大きくなっていくようだ。
 男の顔色が見る間に赤黒く変わっていく。もう息を吸い込むことすら、大変な作業になっているらしい。
「う、うげ……く、くるし……ぐぅ……がぁ……やめ、やめて……げ、げ……」
 男の喉から、悲鳴とも懇願ともつかない声が漏れ出た。目からは涙が溢れている。
 車のドアがギシギシと軋んでいた。
 めき、と何かがひしゃげる音がして、車のドアが外れ、男の体もろとも吹き飛んだ。
 男は、ドアごと砂利道に投げ出され、がくがくと手足を震わせた。
「な……なんだよ、なんなんだ。まさか、まさか……化けたのか? お前、化けたのか?……ユミ……幽実! そ、そういう意味、だったのか?」
 圧力から解放された男は、荒い息をつきながら呟いた。目からは、たった今浮かんでいた激しい光がきっぱりと失せている。代わりに男の目には、ひと以外のもの、何かとんでもないものでも見ているような色が──激しい怯えの色が、浮かんでいた。

(続く)